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意を決して二段しかない階段の上にあった長靴を履いた。きゅっきゅっと音を立てながら降り積もったばかりらしい雪を踏む。住んでいた町はここまで雪が積もったことがない。馴染みがない感覚に楽しくなる。弾むように歩きながら足跡を追いかけた。
建物を曲がるとすぐそこに納谷のような小屋があった。長靴の跡はそこで途切れている。やっと安中の顔を拝めるのか。女だろうか。男だろうか。若いだろうか、年寄りだろうか。ただ優しい人物であればいいなと思う。毎日記憶がなくなるようなややこしい自分の面倒を見てくれるのがすぐ怒るような人間は嫌だなと思った。
鍵のかかっていない扉を開けて中を覗く。薪が大量に積んである室内はしんとしていた。そんなに広いスペースではないので人が隠れる場所もない。宛が外れたかと今日何度目かの「あれ」を呟く。
「お探しですか」
低い男の声が後ろでして、佐江波は飛び上がるくらいびっくりした。
心臓が跳ねて痛む胸を押さえながら振り返ると若い男が立っていた。二十代後半の背の高い男。佐江波より十センチほど高い。
意地の悪い声の掛け方をする。佐江波が睨むと男はごめんなさいと笑った。その笑顔はとても優しそうでほっとする。
「安中さんですか?」
「安中です」
『あんなか』という発声に男は肯く。『安中』は『あんなか』だったんだなと頭の中にメモする。もっとも一日で忘れてしまうのだけれど。
佐江波の寒さで震えた肩に気づいた安中が自分のコートを脱いで羽織らせてくれる。体温の移ったコートに安堵の息をつきながら有り難く拝借する。安中に誘導されて二人で家の中に戻った。
「おはようございます」
「おはようございます」
薪ストーブの前で唐突に朝の挨拶をした佐江波に笑いながら、安中が返事を返してくれる。
「どうしたんですか、急に」
「いや、ノートに挨拶をしなさいって書いてあったんで」
「あれはそう言う意味じゃないですよ」
「わかってますけど」
朝起きてまず安中に会いなさいという意味だとはわかっている。そうしないと佐江波はこの家の中のことも自分の状況もわからない。
「ここどこですか」
燃える炎で暖を取りながら訊く。安中はリビングから続くキッチンで湯を沸かしている。たぶん冷えた佐江波の為に暖かい飲み物を用意してくれている。コンロの前で腕を組んだ安中がゆっくりと微笑んだ。
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