雪を踏む

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驚いた佐江波の様子でも思い出したのか安中がくすくすと笑う。優しく扱ってくれるのに時々意地が悪い。年上なのに揶揄われている。けれど何故か安中にそんな風にされるのは嫌じゃなくて、釣られて佐江波も笑う。 体が温まったところで朝食の用意をしてくれた。食べている間、佐江波は質問を挟んだ。色々聞きたいことはあったけれど切りがないので吟味して訊いた。お陰で大体の現状が把握できた。 そして一番知りたかったのは洗面所までシステマティックに誘導されたあの仕掛けについてだった。 「あの張り紙思いついたのって安中さん?」 「いえ、佐江波さんです」 「俺の字ですもんね。ナイス俺」 過去の自分を自画自賛する。毎日、確実に記録のノートと安中に出会うための仕掛け。あれがなければ佐江波はまだ昨日の記憶を探して右往左往していたかもしれない。 「でも起きた瞬間が混乱するんですよね。あれ、ここどこだって。天井にも貼ろうかな。『お前は記憶を失っている』とか」 真面目に検討している佐江波を眺めて安中が微笑む。馬鹿にしているようではない。愛しいものを慈しむような優しい眼差しに佐江波はどきりとした。そんな目を向けられる覚えは自分にはない。しかし安中は覚えている。毎日この家で佐江波と過ごした日々を彼は知っている。 狡いなと思った。そして何故だかこの男との時間を覚えていないことを寂しく思った。佐江波にとって初めて会ったも同然の男なのに。 黙り込んだ佐江波に構うことなく安中は食事を終えた。佐江波も少し遅れて食べ終えた。片付けを済ませると安中は着替えを持ってきてくれた。それからアトリエとして使っている部屋へ案内してくれた。 ノートの一番最後を開く。真新しいボールペンの書き口で3点の絵について依頼主の要望、自分の構想、そして期日が書いてあった。やはり記憶になかったけれど佐江波の筆跡だった。佐江波がキャンバスを取り出すと安中は部屋から出て行った。一人になった空間で描きかけの絵と向き合う。 覚えていないのに、不思議と筆は動いた。恐らく自分の本質的なものだからだろう。呼吸をするように佐江波は絵を描く。油絵具を選び取り出す。どこに筆を置くのか、線を引くのか、色を足すのか。溺れるように絵を描くという行為に没頭した。
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