50人が本棚に入れています
本棚に追加
朝目覚めるとベッドには一人だった。微かに湿って皺の寄ったシーツの左半分はすっかり冷えている。
「あれ」
独り言を呟きながら佐江波は髪をかく。手入れをしていない伸びた髪が寝癖で絡まって指にかかる。無造作に引っ張って整えながらもう一度、あれと声に出した。
返事はない。冷え冷えとした室内に佐江波の低く掠れた声だけが響く。あれ記憶違いだったかなと今度は胸の中で呟く。昨日の夜、ベッドで眠る時は誰かと一緒だった。自分のものより高い体温に触れたことを覚えている。体が冷えやすい佐江波はその温もりに誘われるよう眠りに落ちた。
それが誰だったかは思い出せない。名前も顔も、一切頭に浮かんでは来なかった。恐ろしい程の記憶の欠落に寝起きの佐江波はようやく気づく。
昨日は確か新しく開く個展の打ち合わせで珍しく外出をした。佐江波は絵を描いている。美大を出て、プロの画家として活動している。我が強すぎる佐江波は人と会ったり折衝したりするのが不得手だけれど、生活がかかっている以上仕方がなかった。
浮かない気持ちで電車に乗った。
それからどうしたんだったかな、と部屋を見渡す。知らない部屋だった。実家を出て自分が借りているマンションではない。キングサイズのベッドを置いてまだ広い。もっとよく見たくて立ち上がってカーテンを開ける。窓から見える屋根や空の高さからして恐らく戸建てだろう。余裕のある間取りが想像出来る。
酔って誰かに泊めて貰ったのか。それにしては覗き込んだ外の景色は佐江波が想像したようなものではなかった。遠くに地平線が見える。緩く湾曲したカーブの右手前に黒い森があった。鬱蒼とした木々を抑えるように白いものが被さっている。
雪だ、と気づく。驚いて、白いと思っていた地面に目を凝らすと銀世界が広がっていた。まだ低い朝日に照らされてきらきらと光る。
呆気に取られて佐江波はベッドに崩れるよう腰掛けた。両手で顔を覆って太く息をつく。困ったなと思った。いくら厳冬だと言っても東京の冬がこんなになる訳がない。建物を埋め尽くすくらいの雪が降ったらそれはそれで素敵だけれど、恐らくたぶんここは自分が住んでいる街ではない。
最初のコメントを投稿しよう!