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少女が恋に落ちた瞬間
倉橋樹はかつて、少女が恋に落ちる瞬間を見た。
あれはまだ、中等部にいたころの話だ。中等部卒業と同時に父親の転勤で引っ越していった親友、鈴島昌太郎と、まだ同じ学校に通っていたころだった。校内に植わっていた桜が盛大に散り始めていたから、中学三年の春だったと記憶している。
昌太郎はバスケットボール部の部長で、成績優秀、それでいて人当たりが良いという、女子生徒の憧れを絵に描いたような少年だった。今でも、何故樹が親しくしているのか不思議になるほどだ。他人とは少々感性がずれているところがあったので、それで樹と馬があったのかもしれない。それはともかく。
そんな昌太郎は中学時代、園芸委員会なるものに所属しており、来る日も来る日も一生懸命花壇に水をやり、花びらや砂埃でめちゃくちゃになった庭を掃除して回っていた。そのころ部活は大会三昧で、何より高校は外部受験をしなければならなかったので、まったくもって暇ではなかったはずなのだが、与えられた仕事は機嫌よくきちんとこなしていた。
ただ、無理がたたったのか、季節の変わり目にやられたのか、中学三年の春に、一週間ほど学校を休んだ。病み上がりに学校にやって来て、一緒に登校してきた樹を連れて一番に向かったのは、体育館でも教室でもなく、花壇だった。この時、樹は、しまった、と思った。中等部の園芸委員会が昌太郎を除いていかに不真面目なものであるかは知っている。用務員のおじさんは生徒たちの花壇には手を出さないから、一週間放置された花壇は荒れ放題になっているだろう。昌太郎はきっと、顔には出さないまでも、不快に思うことだろう。
しかし、樹の心配は、杞憂に終わった。花壇は一週間前と変わらない姿でそこにあった。傍に桜が植わっているので、一日でも放っておけば散った花びらに埋め尽くされてしまう。桜の花びらは散ったばかりならば美しいものだが、その上を生徒たちが踏み荒らせば見るも無残な有様になる。校庭も近いので砂まみれにもなる。雨でも降ろうものなら泥だらけにもなる。だが、そうはならなかったのだ。黄色のチューリップが朝日を浴びて眩しいほどに輝いていて、特に草花に関心のない樹でも、きれいだな、と素直に思えた。
花壇の傍で箒を使っていた少女を見つけた。丸い膝が良く見えるほど短いスカートに、黒髪をゆるくカールさせている彼女は、クラスメイトの新城環だった。クラスの男子生徒たちの評判では、かわいい上におしゃれで外見は言うことなしだが、愛想が悪いのが玉に瑕だ、という話だったように記憶している。クラスメイトだというだけで、話をしたことさえなく、そもそも女子生徒に進んで話しかけるのも気が引ける。樹はそういう少年だったので、そっと目を逸らした。
ところが、昌太郎は違った。彼女の姿を見て、大きな目を輝かせる。
「おはよう!」
環はびくりと肩を震わせた。それを見た樹は少しだけ彼女に同情した。根暗な人間にとって、底抜けに明るい昌太郎は時折怪物のように見えるものだ。昌太郎にはその自覚がないのが更に面倒くさい。樹も最初は昌太郎が苦手だったことを思い出す。懐かしい気分になってくる。
「……お、おはよう」
「花壇の掃除、君がしてくれたの?」
「えっ」
「そうなの?」
昌太郎がこう言っているということは、彼女は園芸委員会の一員ではないのだろう。彼は委員会のメンバーの顔と名前は覚えているはずだ。環は昌太郎から目を逸らして、こくりとうなずいた。
「……ち、散らかってるなって、たまたま、気になったから」
本当に気まぐれでやっていたことなのに、こんな怪物に目をつけられてしまって、かわいそうに。
「花に水もやってくれたんだ」
「そう、だけど」
「そっかあ。休んでる間、気になってたんだ。ありがとう!」
かわいそうに、という感想はその瞬間、別の意味に変わってしまった。
昌太郎のとびきりの笑顔を目の当たりにした環が何を思ったのか、樹には手に取るようにわかった。昌太郎と中学三年間一緒に行動していれば、数えきれないほど見てきた光景だ。つまり、落ちた。彼女は白い頬をほんのりと赤らめて、竹箒を抱きしめるようにして、固まっている。
当の昌太郎は全く気が付いていないようで、今日は花壇の世話が必要ないとわかると、足取りも軽やかに教室へ向かった。その途中で、もう一度環の方を振り返って手を振っている。それは彼女の想いを加速させてしまうだけだから、昌太郎にその気がないのならやめた方が良いように思ったが、樹は迷った末に口にするのをやめた。鈍感な昌太郎に樹の真意が伝わるとは思えず、詳細に説明するのも億劫だった。
何故こんなことで人は人を好きになってしまえるのか。当時の樹には理解できなかった。
昌太郎が、友である自分の目から見ても非の打ち所のない少年であることは認める。しかし、それで好きになるくらいなら、現代人はテレビをつけっぱなしにしているだけで恋に落ち続けなければならないではないか。いや、昌太郎が顔だけの男ではないことは知っている。世の女性たちは見る目があることも、悔しいが認める。昌太郎は間違いなく良い奴である。それは、わかっているのだが。
やっぱり、よくわからない。
樹がこの時の彼女の気持ちを真に理解するのは、それから一年後のことだった。
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