少年が恋に落ちた瞬間

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少年が恋に落ちた瞬間

***  中等部を卒業すると、昌太郎(しょうたろう)は予定通り町を出て行って、(いつき)(たまき)は高等部へ進学した。樹は環と同じクラスにはなったが、正直なところ、中学三年の春にあった出来事は、ほとんど忘れかけていた。樹はあまり他人に関心を持たない人間だった。  だから、気づいてしまった自分が、不思議で仕方がない。  学校生活というのは情報の洪水だと、樹は思う。数多くの生徒、教師たちの立ち居振る舞い、癖、関係性、趣味嗜好に至るまで、特に知ろうとしなくても、いくらでも情報が流れ込んでくる。溢れた情報の全てに気を配るほど、学校生活に強烈な興味を持っているわけではない。ただこの日ふと、授業が終わって、気になったことがあった。  放課後の生徒の行動パターンは、いくつかに分けられる。その場で友人と雑談を始める者、塾や習い事の時間を気にして慌ただしく教室を出ていく者、部活に向かう者、等々。弓道部に所属する樹は最後の類型に当てはまるわけで、特に珍しくもない、よくある生徒の内の一人である。  今回、樹の興味を引いたのは、放課後の生徒たちの様々なパターンのひとつ、掃除当番というものだ。  この学校では、生徒たちに教室の掃除をさせる。樹にとっては当たり前だったのだが、昌太郎から、高校生になってからは教室の掃除なんてしたことがないよ、と言われたので、当たり前とまでは言い切れない現象のようだ。  掃除当番は持ちまわり制で、放課後に行なわれることになっていた。が、放課後の教室、教師という見張りがいない場合、これは相当の確率ですっぽかされる。樹のクラスでもそれは日常茶飯事で、埃っぽい教室で授業を受け続けることも珍しくはなかった。  面倒な教室の掃除を真面目にやるのは、教師からも模範的とされる生徒たちだ。反面、しょっちゅう放り出すのは、授業は居眠り、遅刻常習犯といった問題児が多い。  必ずしもその法則が当てはまると決まっているわけではない。模範的な生徒とはいえ、周りが全員さぼろうものなら、自分ひとりで掃除をすることなどばかばかしくなって放り出すという局面を見かけたこともある。反対に、問題児も毎回さぼっているわけではない。あくまでも傾向の問題だ。  その中で、不思議な光景を見た。  丸い膝が良く見えるほど短いスカートに、軽く化粧をほどこした顔、耳には小さなイヤリング、髪は染めてこそいないがゆるくカールさせている。清潔感があって、決して派手すぎず、似合ってはいるのだが、少なくとも、「模範的」な生徒がする身だしなみではない。そんな女子生徒、新城環が一人、黙々と教室の掃除をしていた。  今の今まであの春の日のことなどすっかり忘れていた樹は、唐突に思い出してしまった。そして、悟ってしまった。  彼女はまだ昌太郎のことが好きなのだ。あれから、夏が来て、秋が来て、冬が来て、年が明けて、もう一度春が来て、そしてすでに昌太郎がこの学校からいなくなってしまって、ありがとうと言ってくれる人間はどこにもいないにも関わらず、丁寧に教室を掃除している。忘れてしまうには十分すぎるほどの時間が経ってしまったように思えたのだが、彼女にとってはそうではなかったのだ。  環が集めた埃の山を、元気の良い男子生徒が踏み荒らしていく。環はほんの少し困った顔をしていたが、文句も言わずにもう一度集め始めた。それを見ていた者は、樹を除いて一人もいない。騒然とした放課後の教室の中で、彼女の周りだけが時間の流れが違っているようにさえ見えた。  気が付くと、樹は掃除用具箱から箒を取り出していた。本来五人で掃除することが想定されているだけに、道具は余りに余っていた。選び放題である。どうせなら少しでも新しくてきれいなものを使いたい。どれにしようかと選んでいたら、声がかかった。 「あの」  環は箒を持ったまま寄って来た。 「えっと……倉橋君、だっけ? 当番じゃないでしょ」  不思議なことを言う人だ。樹は思い出す。そう言う君はあの日、当番でも役割でもなんでもないのに、あの庭を掃除していたんじゃないか。 「二人でやった方が早く終わるから」 「でも、悪いよ」  一人で平気だよ、という消え入りそうな声が耳に入ったが、聞こえなかったふりをした。  二人で静かに掃除を終え、彼女が小さな声で「手伝ってくれて、ありがとう」と言ったころ、樹はすでに自覚していた。  自分もまた、彼女に惹かれていることを。そしてその恋は自覚すると同時に潰えてしまっていることを。  恋というものはあまりにも簡単に落ちてしまえるもので、それがどんなに無意味で、望みのないものであっても、抗うことができないのだということを、初めて理解した。
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