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6月7日(日) 深夜の取引
日付が変わった頃に、茂手木はスクープ記事を引っ提げて社に向かった
若者に人気のクラブで、関係者による監禁・暴行未遂事件
数人を尾けついたらたまたま遭遇した
デスクからもGOが出て、パソコンに向かった
容疑者の過去や素性を洗わなくてらならないが、近くで目撃していたから、臨場感溢れる記事が書けるだろう
それに、被害者とも面識がある
美貌の男性麗人
それだけで他社を出し抜ける
写真はNGだろうが、樹の顔は業界では有名だし、トゥイッターにでも投下しておけば、ネットにあることないこと書かれて、あっという間に広がるだろう
茂手木が皮算用していると、外線が鳴った
誰か取るだろうと無視ししていたが、呼び出しが止まることなく、顔をあげると部屋には自分しかいなかった
茂手木は不機嫌さを前面に出して電話をとった
「週刊キング編集部」
『こんばんは。北野です』
電話の向こうで、思いもよらない相手の声が聞こえ、茂手木は思わず背中を伸ばした
「北野さん、なんで?!」
『茂手木くんだ。よかった。今夜のこと、記事にするなら、社に詰めてるだろうな、と思って』
「なんでそのことを…」
茂手木は瞬時に考えを巡らせた
これはブラフなのか、例えそうだとしても、知らないフリをしたところで、茂手木にデメリットはない
むしろ、店内で何が起きたか、聞き出すチャンスでもある
茂手木は汗が滲む手で受話器を握り直した
「俺が尾けてるって、よくわかりましたね」
『君が俺を尾けてないなんてことはないと思って』
「さすがです。今日は追うのに苦労しましたけど。シモキタのお好み焼き屋もね、元世田谷署の刑事がやってる店ですね。滝沢が真犯人だという確証は得られましたか?」
『まさか』
数人は数人で、滝沢が妊娠していたかもしれないというネタを掴まれるのは困る
お互い探りながらいくしかない、と思った
探りながら、茂手木に選ばせる
そのエサをいまから撒こうとしていた
『ところで、さっきの救助劇は一枚岩じゃなくてね』
「どういう意味です?」
『君次第によっては特ダネを提供できると思うんだ。どうする?』
「つまり、そのネタの代わりに、乃木を諦めろってそういうことですか?」
『ご名答』
茂手木が返事をするまで、ずいぶん間があったように感じられたが、実際は5秒かそこらだろう
「ネタにもよりますね。乃木の事件は思い入れも強いので、そうやすやすとは諦められません」
『少なくとも、罪を償った元服役囚のいまを暴露して、バッシング受けるよりはいいと思うよ』
「一挙両得ってのもアリかも。念書でも書かせます?」
貪欲な茂手木ならやりかねない
『いや、お前を信用するよ』
その一言で、電話の向こうの空気が変わったのを、数人は感じた
茂手木は、今まで聞いたことのないようなか細い声で
「…もし、あなたが、私の立場ならどうしますか?」
なんという酷な質問をしてくるのだろうか
数人は『乃木の事件を選ぶ』と答えそうになるのをぐっと飲み込んだ
『今夜のネタの方だろうな。いつ書けるかわからないネタよりも、即スクープがとれるし、世間的な影響もある。お前の評価が上がることは間違いない。それに…』
「…それに?」
『人間は、人間として、一線を越えてらならない理性の壁がある。それは金や名誉には変えられない。もし変えてしまったらお前は一生苦しむし、未来の幸せを逃す。今までがどんな境遇だったか、察するにあまりあるが、だからこそ、お前には全うに生きて欲しいと思うよ』
電話の向こうで、茂手木のすすり泣く声が聞こえた
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