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汚れも錆びもない冷蔵庫の扉に目をやると、いつものように1枚だけ、葉書が貼られていた。年賀状というものだ。絵に描かれた西暦から計算すると、20年以上前のものだと思われる。
――日野平太様 Dear.Heita Hino.
ジャンには、エイタ・イノとしか発音できない。この語圏ではHをアッシュというが、発音しない。無音のアッシュは、存在するのに存在されない。発音しないことが綺麗だとされる。
彼は油を挿されたブリキのように動き始めた。
コーヒーをつくり、カヌレの包装を開けて皿に移す。テーブルの本は端にやり、コーヒーとカヌレを置く。
ジャンは勧められてテーブルに着き、もてなしを頂いた。
大きな蜂蜜の瓶も置かれるが、それは丁重にお断りした。
彼はコーヒーに蜂蜜を大量投入した。その量は、まるでミルンの熊がごとし。ごく普通であるかのようにコーヒーに口をつける。
「悪かった。忙しいのに、話を聞いてもらって」
「話を聞くのは、僕の仕事だよ」
「それは、腐れ縁として、か」
直球で訊ねられ、ジャンは言葉に詰まった。神秘的な黒い瞳に捉えられ、逃げられず、正直に答える。
「昔馴染みとして。神に遣える身として。神に背いた者として」
ジャンは、つくづく思う。
中途半端に同情する自分よりも、優しさの塊のような彼の方が聖職者に向いているのではないかと。
自分は必ず、神に裁かれる。きっと、温情は、ない。
彼もおそらく、神に裁かれる。ただ、神は見ておられる。彼の、誇りがないほどの優しさを。
「仕事があれば、また来るよ」
「なくても来るんだろ」
「まあな」
この仕事に引き込んだ、罪の意識もあるし。その言葉は、コーヒーと一緒に飲み込んだ。
ジョワイユーノエル、エ、ボナネ。
代わりに、年末年始の挨拶をして。
冬が踊る市街地では、ホットワインの匂いがする。
「鉄の男広場」は、雪がちらついていた。
ジャンが神父のお務めで忙しがっている間、彼はあの場末のアパルトマンに引き篭もるだろう。
埃も汚れも錆びもない冷え切った部屋で、読書をして、蜂蜜入りのコーヒーで水分と糖分を摂取、たまに粗食をして、オリヅルをつくりながらそこに埋もれて、悼みながら、悔やみながら。
必要とされ続ける限り、無音のアッシュで在り続けるために。
【「無音のアッシュ」完】
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