無音のアッシュ

4/4
前へ
/4ページ
次へ
 汚れも錆びもない冷蔵庫の扉に目をやると、いつものように1枚だけ、葉書が貼られていた。年賀状というものだ。絵に描かれた西暦から計算すると、20年以上前のものだと思われる。  ――日野平太様 Dear.Heita Hino.  ジャンには、エイタ・イノとしか発音できない。この語圏ではHをアッシュというが、発音しない。無音のアッシュは、存在するのに存在されない。発音しないことが綺麗だとされる。  彼は油を挿されたブリキのように動き始めた。  コーヒーをつくり、カヌレの包装を開けて皿に移す。テーブルの本は端にやり、コーヒーとカヌレを置く。  ジャンは勧められてテーブルに着き、もてなしを頂いた。  大きな蜂蜜の瓶も置かれるが、それは丁重にお断りした。  彼はコーヒーに蜂蜜を大量投入した。その量は、まるでミルンの熊がごとし。ごく普通であるかのようにコーヒーに口をつける。 「悪かった。忙しいのに、話を聞いてもらって」 「話を聞くのは、僕の仕事だよ」 「それは、腐れ縁として、か」  直球で訊ねられ、ジャンは言葉に詰まった。神秘的な黒い瞳に捉えられ、逃げられず、正直に答える。 「昔馴染みとして。神に遣える身として。神に背いた者として」  ジャンは、つくづく思う。  中途半端に同情する自分よりも、優しさの塊のような彼の方が聖職者に向いているのではないかと。  自分は必ず、神に裁かれる。きっと、温情は、ない。  彼もおそらく、神に裁かれる。ただ、神は見ておられる。彼の、誇りがないほどの優しさを。 「仕事があれば、また来るよ」 「なくても来るんだろ」 「まあな」  この仕事に引き込んだ、罪の意識もあるし。その言葉は、コーヒーと一緒に飲み込んだ。  ジョワイユーノエル、エ、ボナネ。  代わりに、年末年始の挨拶をして。  冬が踊る市街地では、ホットワインの匂いがする。  「鉄の男広場」は、雪がちらついていた。  ジャンが神父のお務めで忙しがっている間、彼はあの場末のアパルトマンに引き篭もるだろう。  埃も汚れも錆びもない冷え切った部屋で、読書をして、蜂蜜入りのコーヒーで水分と糖分を摂取、たまに粗食をして、オリヅルをつくりながらそこに埋もれて、悼みながら、悔やみながら。  必要とされ続ける限り、無音のアッシュで在り続けるために。  【「無音のアッシュ」完】
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

8人が本棚に入れています
本棚に追加