無音のアッシュ

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 彼は重そうに、しかし静かに腰を上げ、カーテンを開けた。  どんよりと雲が垂れ込めた空から差し込む光は、ない。  諦めてカーテンを閉めると、今度は台所に向かった。やかんに湯を沸かし始める。手元にマグカップとインスタントコーヒー、市販のカヌレを用意すると、台所の縁に両手をつき、充電が切れたかのように動かなくなった。  綺麗に拭かれたガスコンロから、青い火が控えめに点る。  ジャンは窓の外を一瞥してから、彼を見やる。 「話なら、聞くよ」  ジャンが声をかけると、彼は神秘的な黒い瞳をしばたかせた。髭が残念なくらい形の整った唇がわずかに開かれ、結ばれ、開かれる。 「すごいな、と、思うんだ」  雑味のない声が、部屋の空気に溶ける。 「路面電車(トラム)も救急車も、掃除されて消毒もされて、何事もなかったかのように綺麗にされる。本当に、すごい」  物が散乱しているのに、空気は澱んでいない。それどころか、森の中のように澄んでいる。 「でも、関わった人達が負った心的外傷は、すぐには綺麗にならない。もしかしたら、生涯、ずっと」  やかんが鳴く。彼は膝から崩れ、頭を抱えた。 「アンリ」  仕事の名ではなく、あえて昔馴染みの洗礼名で呼ぶ。 「きみが心を病むことではないよ。きみは正しいことをした。だから、何事もなかったかのように路面電車(トラム)は運行し、救急車は必要な場所に迎えている。心的外傷を負った人だって、治療を受けられている。だから、きみが心を病むことなんか、ないんだよ」  ジャンは膝をつき、彼の肩に触れる。鯖缶以外食べていなかったのではないかと思うほど、必要最低限の筋肉しかついていないのではないかと思うほど、痩せていた。
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