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遠くに薄っすらと見える家を指差す。遠くてよく見えないけれど、目を凝らしてみると、なにか古ぼけた看板らしきものが、屋根の辺りに掲げられているようにも見える。
突然、日葵が走り出した。
「えっ、ちょっとっ。どうして走るの?」
「お姉さんのせいだよ。やましたさんところに行くと、遠回りになって龍神様の所に着くのが遅くなるから。ほら駆け足。ダッシュ」
ぽかんと呆けている私を顧みず、日葵は走って行く。
置いていかれまいと腕を思い切り振って走る。身長差でなんとか距離を広げられることはないが、足取り軽く、大股で跳ねるように走る日葵に対して、私は息も絶え絶えで一歩一歩重い足を何とか持ち上げて走る。体育の授業ですらこんなに精一杯走ったことなんて無い。
そういえば、紗奈も運動は得意だったな。学校のマラソン大会で先頭を走る妹を見て、どうして、あんなに楽しそうに走れるんだろう。疲れてしんどいだけなのに。なんて、呆れた。
理由を尋ねると紗奈は「走るのって楽しいでしょ。そうだ、明日からお姉ちゃんも一緒に走ろっか。特訓。きっと楽しいよ」と、嬉しそうに誘ってきたので、私は辟易した。
きっと、私と紗奈は生き物としての根本的なところで、何かが違うのだ。
「遅っそーい。そんなんじゃあ、やましたさんところに着かないよ」
「……いや、……家は逃げないんだからさ……いつかは、着くでしょ」
「聞こえなーい。ほら、早く。お姉さんはお姉さんなんだから」
目的の一軒家につく頃には、息は上がりきっていて声を出すことすらできなかった。足が小刻みに震えている。身体中から汗が止まらない。一生分の汗が流れ出ているんじゃなかろうかとすら思えた。
水分補給が目的のはずなのに、私の身体からはそれ以上の水分が流れ出て、蒸発してゆく。
一軒家の入口付近に設置された古ぼけたベンチに、身を投げ出すように座る。錆びた鉄の匂いが鼻についた。赤い錆の色が服に移るかもしれない。そんな心配が頭の片隅に薄っすらと浮かんだけど、疲れた身体を起こす気は起きなかった。
「着いたよ。やましたさんところ」
「……お願い。お茶、買ってきて」
息も絶え絶えの私はポケットから財布を取り出し、そのまま日葵に渡した。
「良いの?」
「あー、うん。お願い」
脳に酸素が回っておらず、ぼんやりとした思考で私は曖昧に返事をした。
少女は嬉しそうに財布を掴むと、がらがらと店の戸を勢いよく開いた。
「こんにちはー。おばあちゃん」
元気に挨拶と共に、店の中へと消えてゆく。あれだけ走ったのに、よくもまあ元気なものだ。
深呼吸を何度かして、ようやく息の整ってきた私は、首だけを動かし、やましたさんところなる家を見た。
『やました商店』と大きく白い文字が書かれた看板。元々は紅白の背景だったみたいだけど、長年雨風に晒されてきたためにほとんど錆びてしまっていて『やました』の文字すら消えかかってしまっている。
建物自体も同様で、街で見かけたなら、きっと閉店したのだと判断してしまうだろう。
ベンチ横のアイスの冷蔵庫には『開けたらすぐ閉める』と張り紙がされている。
テレビで、昔懐かしい駄菓子屋と称されるような佇まい。
入口から見える商品棚は食べ物や、お菓子。シャンプーや絆創膏まであり、何のお店なのかすら判別がつかない。小さななんでも屋だから、商店とジャンルをぼかしているのだろうか。
「おまたせ」
「ありがと」
喉がカラカラに乾いていた私は、商店から出てきた日葵からペットボトルを受け取ると、キャップを開けてすぐに口をつけた。
瞬間、口内に広がる甘ったるさと喉を責め立てる炭酸に「んんっー」と声を上げた。ゴホゴホと何度か咽る。
混乱しながらペットボトルを確認する。ラベルにはファンシーな水玉模様の背景にオレンジのイラスト。ペットボトル内は細かい泡の弾ける黄色い液体。紛うことなくオレンジ風味の炭酸ジュースだった。
責めるように日葵を見ると、悪いと思ったのか日葵は目を逸らした。
「だって、お茶なんて売ってないもん。お茶は家で沸かすもので、店で買うもんじゃない。誰も買わないからお茶なんて置いてないって。だから代わりにジュースを買ってきたの」
しゅんとする日葵を見て、責める気は消えた。お茶は買ってまで飲むものじゃないという、このあたりの文化を知らなかった自分が悪いんだ。そう言い聞かせた。それに、日葵なりに最善を尽くした結果なんだろう。
少女の手に、私が持っているのと似たラベルの、メロン風味の炭酸ジュースのペットボトルが握られているのにも目を瞑ろう。
「ね、アイスも買っていい?」
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