泡沫の

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 風の合間から聞える鳴き声の数に、ルルドは違和感を思え、手綱を持つ手を緩める。  まだ寒さの残る貝寄風かいよせは、立ち止まった所でさして変わり無く、耳元で吹き荒み思考を妨げる。  風を掃い耳をそばだて、眼下に広がる羊の群れに視線を落とす。  元の数を把握しているわけでも無く、見渡す限り眼下の空いっぱいに広がった羊を一頭一頭数える等と言う事に、無駄な労力を裂くわけでもない。  ただただどこかに違和感は無いか探るだけ。  気のせいならば問題ない。どこかに違和感や異変が無ければそれで良い。  そんな軽い思いで視線を巡らせると、ある一点で視線が止まった。  手綱を引くも、馬は久し振りの恵みの春風を食むのに必死で動こうとしない。  何度か手綱を引いてみるも、頑なに動こうとしない馬の姿に、ルルドの方が折れた。  諦めてルルドが適当な風を掴み空に降りると、待ってましたとばかりに馬は体を震わせ馬具を外せと顔を摺り寄せてくる。  長い冬を耐え抜いたのは羊も馬も同じ事。ルルドは馬具を外してやると、馬の首筋を二、三度叩き、好きなように走らせてやった。  駆けて行く馬を見送ったルルドは馬具を肩にかけると、再び違和感のあった羊の群れに視線を落とし、刺激しないようゆっくりと風を手繰り群れの中に降りて行く。  春を告げる風と言えば、厳しい冬を越えた生き物達には嬉しい物のように聞えるが、その荒々しさはまだ冬が過ぎ去っていないと窘めるよう。  日々風を追い空を舞う天上遊牧民とは言え、荒々しい、人馴れしていない野生の馬のような風に、羊達を刺激せず乗りこなすのは酷く神経を使う。  馬を降りたルルドに気付いのか、遙か先で一緒に羊を追っていたダッドがこちらに戻って来るのが見える。  この空腹を刺激する風を前に、ダッドの馬は良く我慢が出来るものだと、ルルドは上空でのんびりと風を食む自身の馬を仰ぎ見ながら自嘲気味に笑う。  羊の間に降り立ったルルドは、自分が感じた違和感の原因にすぐに気が付いた。  全ての羊こそは覚えていないが、生まれたばかりの羊とその親の顔は覚えている。今ルルドの側でしきりに鳴き声を上げているのは、つい半月程前に子羊を産んだばかりの親羊だ。  しかし、いくら辺りを探してもそこにいる筈の子羊の姿が見えない。  縦横無尽に動き回る羊達の間を、どんなに目を凝らし探して見ても、一向に見つからないのだ。  羊達の上に影が落ち、もうダッドが追い付いたのかと顔を上げようとした時、ルルドの視界の端に小さな白い点が映った。  反射的に顔をそちらに向けると、ルルドや羊の群れから遙か下にある山裾の辺りを、一匹の子羊が風に流されて行く姿が目に飛び込んで来た。 「一匹落ちた!」  隣に降り立ったダッドと入れ違うように、ルルドは端的にそう叫ぶと、馬具を投げ渡し、風を縫い上げ子羊目掛け一気に降下する。  追いかけるなら馬に乗っているダッドの方が早いが、今羊を追っているのは二人だけ。  もし羊の群れに何かがあった時に、迅速に動けるのもダッド。  となれば、いくら産まれたての宝とは言え、一族の全財産と天秤にかける程でもない。  荒々しい風に流される小さな体は、瞬き一つで見失ってしまう。  馬に戻るその一瞬で視界から消えてしまう恐れのある子羊に、ルルドは自身の足で追いかける事を選んだ。  羊追いを任されるのは、風の扱いに長けた者。  うねり絡み付く風を使えば、馬を使わなくとも追いつけるかもしれない。  「あまり降り過ぎるな! 肺がやられちまうぞ!」  風と共に上空から降り注ぐダッドの声に返す余裕は、今のルルドには無かった。  普段は寝惚けていても勝手に風に乗ると言うのに、今は掴んだと思ったらすり抜け、上に向かったと思えば次は急激に降る風に翻弄される。  靴の裏に当たる風の感触と、鼻に付く匂いを読み、どうにか流される事なく真っ直ぐに子羊目掛け降下するも、風に弄ばれる子羊の体は面白いように飛んだり跳ねたり回ったりと、わざとそうしているのでは無いかとさえ思わせる程、大人を弄ぶ子どもの規則性の無い動きと良く似ている。  羊達が群がる雲のすぐ下から、背の高い山の頂程の高さまで降りた辺りで、ルルドは息苦しさにぐっと眉根を寄せる。  青と白の空の世界から、緑と茶色の地の世界に降りて来た証拠だ。  高度が下がるのに比例し呼吸も苦しくなり、風も読みにくくなる。  遮る物の無い上空も風は好き勝手暴れまわるが、ある程度の高さまで降りると、山にぶつかった風が更に不規則に、暴力的にルルドの体を襲う。  目だけは子羊から放すまいと必死に喰らい付くも、咳き込む毎に肺が軋むのが分かる。  こんな空気で、よく地上の生き物は生きられると、ルルドはぎりっと歯を鳴らす。  だが、子羊が運良く埃を舞い上げるかのように大きく一度吹き上げて来た風に乗り、ぐっと近付いて来た。  この機を逃さんと、ルルドはありったけの力で風を蹴り、二歩三歩と子羊との間合いを詰めて行く。  もうあと少し。  手を伸ばす度に子羊の柔らかな毛を撫で、手は虚しく宙をかく。  すると突然、先程まで呼吸する度に痛み軋んでいた肺が、ふと楽になった。  ルルドはその変化に驚き目を見開くも、急激に動きやすくなった体で大きく一度空を蹴り、ようやく子羊の体をその両手に抱く事が出来た。 「よっし……!?」  ようやく捕まえた子羊を抱え込み、空に戻ろうと顔を上げたルルドの目に飛び込んで来たのは、すぐ目と鼻の先に広がる広大な海。  子羊を追いかけるのに夢中で、山どころか、海まで降りて来てしまっていたのだ。  身を捩り止まろうとしても、遥か上空雲の麓から落下して来たのだ。止まろうとてそう簡単に止まれるはずも無い。  歯を食いしばり風を掴む努力も虚しく、ルルドと子羊は海の真ん中に落っこちてしまった。  爆発音のような音と、激しくどこまでも高く広く飛び散る水しぶきを立て、海に落ちたルルドは、初めて触れた海のあまりの冷たさに、落ちた時とほぼ同じ速度で海から飛び上がった。  揃えた両足を曲げ両手で肩を掻き抱き、歯をがちがちと震わせ自身の身に何が起きたのか必死で頭を巡らせる。  ルルドの人生で、大雨に降られても雷雲の中を横切っても、一瞬でここまでずぶ濡れになった事は無い。  目の前には自分の目の高さまで、どこまでも続く海。普段、遙か上空から見える、足元に広がるもう一つの空が今、自分の目の前に広がっている。  ルルドは髪から滴る水滴を目で追い、つま先に触れるか触れないかの位置まで競りあがってくる波に視線を落とす。  貝寄風と呼ばれるだけあり、波の合間には砕けた貝の破片が時折顔を覗かせる。  陸に向かい不規則に揺られる貝を目で追うと、貝の更に下で、白い何かが必死にもがいているのが見えた。  そこでようやくルルドは状況を思い出し、再び海に顔を突っ込むと、波に飲まれ暴れていた子羊を引き上げる。  大人の羊でさえ濡れれば上手く風に乗れなくなると言うのに、腕の中の子羊はまだ産まれて半月程。  冬の寒さの残る海水を吸った体毛は、吹き付ける風も相まって幼い体から容赦なく体温を奪っていく。  再び海面に飛び上がったルルドは、必死に子羊の体から水気を取ろうと毛を撫でるも、自身も全身ずぶ濡れなせいか、思うようにいかない。  群れに戻れば親羊の毛で暖める事も出来るかも知れないと、ルルドは天を仰ぎ足に力を入れたが、頬にぶつかる風の強さにはっと息を飲む。  抱えて飛べばある程度の風からは守れるかもしれないが、それでも吹き荒む風から完全に守りきる事は出来ない。  もし、子羊を抱え親元に急いだとしても、吹き荒れる風とルルドの巻き起こす風の冷たさに、子羊が耐えられると言う保障は無い。  ルルドは上衣を脱ぎ、子羊を曲げた膝の上に乗せると、きつく上衣を絞り子羊の体を拭いてやる。  多少水気も取れてきたのか、体に張り付いていた子羊の毛も、徐々にふんわりと立ち上がり始めた。  ほっと安堵のため息を漏らすも、子羊はルルドの膝にもたれたまま鳴き声一つ上げない。  更に上衣を絞り子羊を包み込んでみても、震えるばかりで元気な声を上げてはくれない。  風も強くなり徐々に波も高くなる。波を嫌いルルドがほんの一歩だけ飛び上がると、それだけで子羊は更に酷く震えだす。 「あの、天上遊牧民の方」  身を屈め再び高度を下げたルルドの耳に、波の音でも風の音でも無い、確かに人の声が聞えた。  反射的に顔を跳ね上げると、視線の先には、海にもたれかかる様に上半身だけ水面に出した女性が、恐る恐るルルドの様子を伺っていた。 「海底、遊牧民?」 「これ、大鮫の皮です。これで包めば水も風も通しません。良かったらその子に使ってあげて下さい」  不思議と波の影響を全く受けない海底遊牧民の女性は、ルルドを見上げ手にした小さな大鮫の皮切れを差し出す。  言葉に詰まるルルドをよそに、女性は一段段差を登る様に一歩踏み出し、海面に座り込む。そしてそのまま手を伸ばすと、ルルドの腕の中の子羊に皮を巻きつけてやった。 「空の、毛のある生き物は初めて見ました。……間近で見ると可愛いんですね」  女性は皮の中で体を丸める子羊を眺めながら、世間話でもする様にふっと笑みを見せると、恐る恐る指先で子羊の頭を撫でる。  初めて間近でみる水上遊牧民に、ルルドは女性の言葉など一切頭に入って来なかった。  ルルドはただただ、静かに子羊を撫でる女性の姿を見つめていた。  足先に叩きつけるように激しい波がぶつかり、ようやくルルドは我に返った。 「もうすぐ、嵐が来そうですね」  ルルドが顔を上げるのとほぼ同時に、女性は沖合の空を見上げながらぽつりと溢し、もう一度しっかりと大鮫の皮を巻き付ける。 「風がよめるのか?」 「まさか。私達は潮をよむんです」  沖合の空を見上げながら、ルルドがふと疑問に思った事を口にすると、女性は手で口元を覆いながらくすりと笑う。  天上遊牧民は風を捉える。嵐を知る術は風をよむ事だけだと思っていたが、海底遊牧民にも独特の力があるらしい。  ルルドは女性の言葉に大きく納得し、更に確かに怪しくなって来た風の流れを目で追う。 「この嵐は二、三日続くかも知れないな。ありがとう、助かったよ。えーと……」  子羊を抱え直し、感謝を伝え空に戻ろうとするも、挨拶すらして無かった事を、ルルドは今更ながらに思い出した。  そしてそれは女性も同じだったらしく、女性ははっと目を丸くし両手で口元を押さえると、徐々に赤面し始める。 「ご挨拶もしないで私ったら。私はトラザス珊瑚礁の、第二大貝族のニマ」 「俺はアルノー雲海の、ゼブ族のヘラルド・ゼブの息子のルルドだ。本当にありがとう。これで空に帰れるよ」  挨拶を終え硬く握手を交わすも、トラザス珊瑚礁もアルノー雲海も、当たり前だがお互い初めて聞く地名であり、たまらず苦笑いを浮かべる。  徐々に波は高く風も強くなって来た。  波の影響を受けていなかったニマでさえ、徐々に波に体を揺さぶられ始めている。 「お礼をしなきゃな。嵐が過ぎたらまた来るから。それまでお借ります!」  ルルドは改めてニマに一礼すると、そのまま思い切り風を蹴り空目掛け舞い上がって行った。
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