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ようやく嵐も過ぎ、二日ぶりに外に出れた。
すっかり元気になった子羊は、この二日で随分とわんぱくで甘えん坊になり、ルルドの側を離れなくなってしまっていた。
肩に飛び乗って来た子羊を一撫でし、ルルドは久し振りの外の空気を目一杯吸い込む。
嵐が遠くから新鮮な風を運んで来たのか、この時期にしては珍しく、鼻をくすぐる香しい匂いが風に混じっている。
これはさぞ羊や馬達も喜んでいる事だろう。
ルルドは雲一つ無く海まで見下ろせる晴れ渡った空を見渡しながら、羊達の囲いに足を運ぶ。
しかしすぐに異変に気付いた。
普段、羊の世話は風の扱いに長けた風追いと呼ばれるルルドとダッドに任せきりの、族長でありルルドの父、そしてダッドの兄であるヘラルドが、一族の男衆と共に囲いの前で何か声を上げている。
声は風に流され聞き取れないが、何かあったのは間違いない。
ルルドは風を捕まえると、滑るように一足でヘラルド達の元へ駆け付けた。
すると、ヘラルドと男衆の他に、兄のアルドの姿もあった。
ようようこれはおかしいと、ルルドがヘラルドの後ろに降り立つと、直ぐさま囲いの側にいたダッドが駆け寄って来た。
「子羊は無事か?」
「当たり前だろう。嵐の間天幕の中で一緒に過ごしたんだ、ちゃんと扇いで風も食わせた」
この状況とどう関係があるのか、ダッドは矢継ぎ早に口を開くと、ルルドの肩の上で甘えた声で鳴く子羊を捕まえ、全身をくまなく調べ始めた。
「そんなに俺は信用ならないか」
しっかりと世話をし、これ程元気な姿を見せても信用ならないのかと、いくら相手が風追いの先輩である叔父とはいえ、さすがにこの対応には腹が立つ。
露骨に苛立った声色でルルドがぽつりと溢すと、ダッドはため息をつき子羊をルルドに返し振り返り、ヘラルドに目配せをする。
ダッドは何も自分に詳細を伝える気が無いのだと、今の行動でルルドは悟り、更に苛立ちを覚える。
ならば自分はこの場に無用。例え普段全ての責任を押し付けられていようが、自分は部外者なのだと判断し、ニマの所にでも行こうと適当な風を捕まえる。
すると、それまで飄々とした顔で押し黙っていたアルドが、小さく笑い出した。
「羊が半分潰れたから必死なんだろうよ」
アルドの口から飛び出した言葉に、ルルドはすぐには理解出来ず、中腰で中途半端な高さを飛びながら、更にアルドの言葉を待つ。
すると今度はアルドでは無く、ヘラルドが堰を切った様に声を上げ、アルドの胸倉を殴りつけるように掴んだ。
「ろくに羊の世話などした事が無いお前が、勝手な事をしたからだろう!」
「それは親父も一緒だろ。羊どころか、自分の子どもの世話もした事無いだろ」
怒りで震え、顔を真っ赤に染め口から泡を吹き始めたヘラルドを、周りにいた男衆が宥め割って入る。
話の流れからして、アルドが何かし、羊の数を半分にしたという所まで、ルルドは何となく理解した。
風を手放し再びその場に降り立ったルルドに、男衆の一人が小さく耳打ちし、今分かっている限りの事の顛末を教えてくれた。
嵐が来る直前。羊達も囲いに戻り後は嵐が通り過ぎるのを待つだけとなった時、何故かアルドは世話などした事が無い羊の囲いを布で覆ったらしい。
そう言われ初めてルルドは囲いに目をやった。
囲いは、木で柵を作り、簡易な天井があるだけの作り。
今はその覆ったと言う布は粗方取り外されているが、回り込んで見て見るとまだ半分程布が引っかかっていた。
囲いを一周してルルドが戻ってくると、話の接ぎ穂をダッドが引き取った。
「雨風が全く入らない程ぎっちりと布で巻かれたせいで、酸欠と餌不足で体の弱い個体から死んでいった」
死んだ羊はもう運び出されたのか、囲いの中はがらんとし、数える程度の羊しか残っていない。
囲いの中に残っている羊も、酷く衰弱し、その場に蹲り動きが鈍い。
風を食べて生きる羊達は、風が無ければ生きられない。
それ以前に人と同じく呼吸をしている。
天幕の中で保護していた子羊も、餌不足にならないようルルドは定期的に扇ぎ風を送り、ほんの少し天幕を開け新鮮な空気を取り込むのを忘れなかった。
天上で暮らす生き物達には、何よりも風は重要な物だ。
ようやく事の全貌が見えて来たルルドは、取り押さえられているヘラルドとアルドに視線を向ける。
ヘラルドは族長の威厳などかなぐり捨て、怒り狂いわめき散らし、アルドはヘラルドの神経を逆なでするように飄々とした笑みを絶やさない。
この父子の不仲を嫌と言う程知っているルルドは、身内の醜態にただただため息が出る。
それはダッドも同じらしく、ダッドは囲いを背にその場に座り込んでしまっていた。
「あんな隙間だらけの囲いじゃ嵐が来たら羊が駄目になっちまうって、俺の善意だったのが分からないのかね」
「それが余計だったのだと言ってるんだ! ただでさえ今年は種付けに失敗したというのに……!」
「種付けに失敗したのは、親父が変に口出ししたからだろ。もう忘れたのかよ」
二人の口論はいつまでも続きそうだ。
確かに囲いは隙間だらけだが、それはあえてそうしてある。
囲いを全てしっかり覆ってしまうと、強風で囲いごと飛ばされてしまうからだ。
その為、風が通り抜けられるよう、あえて隙間を作ってあるのだ。
確かに雨風は囲いの中に入り込むが、言う程中は酷い状況にはならない。
羊達は雨が降れば自然と体を寄せ合い小さくしゃがみ込む。雨風はその上をただただ通り過ぎていく作りになっていた。
羊の世話を多少なりともした事がある者なら、その事は十分理解している。
世話をした事が無くとも、そういう物だと知識として知っていてもおかしくは無い。
ヘラルドには族長としての、並々ならぬ意地がある。
何一つ不備無く完璧に一族を導く事こそに重きを置くヘラルドは、今年の種付けの失敗と、今回息子のアルドのした事が、酷く矜持に触ったらしい。
常日頃から家族に族長の家族である自覚を持って行動しろと、毎朝毎晩食事の度に言って聞かせていた程だ。
ルルドはしばらく収まらないであろう、なんの成果も見出さない無駄な口論は捨て置き、しゃがみ込むダッドの元にそっと近付く。
「何匹残った? 他の子羊は? 駄目になったやつも、まだ加工出来るやつがいるかも知れない」
動かないダッドに子羊を押し付けたルルドは、囲いの中を再び確認し声をかける。
囲いが密閉されて丸二日。
早々に息絶えた個体は今更血抜きをした所で、血抜きすら出来ないだろうが、それでもどうにか加工出来るかも知れない。
それに、まだ息絶えたばかりの個体ならば、問題なく加工し他の一族との商談に使えるかも知れない。
一分一秒も惜しいルルドは、子羊を抱えたまま返事もせずただただ座り込むダッドに見切りをつけると、近くにいた男衆に声をかけ、案内して貰った。
囲いから雲海を少し登った、風通しの良いところで、既に羊の解体は始まっていた。
幸いにも、加工すれば十分に使える状態だったらしく、結婚式の準備でもしているのかと思うばかりに、解体作業場は賑やかにおおらかだった。
羊が死んだという事に縛られ前に進まないでいたのは、自分の身内だけだったと、複雑な気持ちながらも安堵のため息をついたルルドは、案内してくれた男衆に礼を言うと、再び囲いへと戻って行く。
囲いの前では、相変わらずヘラルドが男衆に押さえられたまま泡を吹きアルドを捲し立てている。
「父さん、今解体してる羊をすぐに売りたい。近くに買い取ってくれそうな一族が来てないか確認して欲しい」
ルルドはヘラルドとアルドの間に降り立つと、努めて落ち着いた口調でヘラルドに話し掛け、すぐにダッドに視線を移した。
「羊に新鮮な餌をくれてやりたい。今日の風なら断食明けじゃなくても食いつきそうだ。すぐに準備してくれ」
端的に、誰にも口を挟ませないといった確固たる口調でルルドがそう告げると、それまでただ傍観していた男衆がすぐに動き、囲いの戸を開け始め、それにつられるようにダッドも重い腰を上げると、羊を呼ぶ声を上げ空に舞い上がる。
すると、それまで大人しくしゃがみ込んでいた羊達が、我先にと外を目指し跳び出して行った。
まだ心ここに在らずといった具合のダッドだったが、一度風に乗り羊を従えるとガラリと顔が変わり、風の流れを読み最善の方へと羊を導いていく。
徐々に遠く小さく、太陽の中に消えて行くダッドと羊を目を細め全員で見送る。
姿が完全に見えなくなると、一人また一人とその場を去って行き、年嵩の男衆に肩を叩かれ、ようやくヘラルドも自宅の方へと戻って行った。
ようやく肩の力を抜いたルルドは、思い切りため息をつくと、未だ飄々と笑みを浮かべているアルドの腹を軽く小突く。
「兄さん、本当は何があったんだ。あれ、兄さんの仕業じゃないだろ?」
いつの間にかダッドの手から逃れていた子羊が、アルドの頭の上に座り込むのを眺めながら、ルルドは何度目かのため息をついた。
するとアルドはにやりと口元を歪ませ、悪戯がバレた子どものように、眉を下げくしゃりと笑う。
「羊が可哀想だったって泣き喚く子どもの言葉を代弁してやっただけだよ。うちの一族もこれを機に、羊を止めて小麦か何か、風追い以外も手伝える仕事に移行した方が良いんじゃないか。遊牧を止めて定住にしたら良い」
アルドはどさりとその場に座り込むと、ある天幕の方に向け笑顔で手を振る。
アルドの視線を追うと、天幕の隙間から子どもが数人、目を真っ赤に腫らしたままこちらの様子を伺っていた。
どうやら囲いを布で覆ったのはアルドではなく、あの子ども達だったらしい。
奇しくもその子ども達のいる天幕は、ダッドの家だった。
事情を理解したルルドは、ようやく先程のダッドの様子に合点がいった。
自身の子ども達が起こした事だが、羊の管理を一任されている以上その事を言い出せず、代わりにアルドが責任を被ってくれている事に悲観していたのだ。
「いつも損な役回りばかり……。そんなだから、折角手先が器用で人を束ねるのが上手いのに、風追いが好きじゃ無いって理由だけで次期族長候補から外されるんだ」
「次の族長はルルドがなるんだろ。親父も、族長だけど風追いの才能が無い事を気にしすぎなんだよ。だから風追いの得意な息子のお前が族長になるのを望んでるんだろ。そのせいで叔父さんと仲違いしてるけどな」
空が陰る。
会話を止め、二人がぼんやりと空を見上げると、すぐ上の空域を野生の鯨が鳥を引き連れ泳いでいった。
嵐が去り野生の動物達も浮かれているのか、鯨は陽気に潮を吹き、尾ビレを天高く上げ悠然と過ぎ去っていく。
鳥達は鯨の潮に含まれる何らかの匂いが好物らしく、おびただしい数の鳥が空に線を描き何処までも続いている。
「族長なんか、なりたくない」
「例えそうでも〝なんか〟って言うなよ。親父も自分は出来ないのに、羊の世話〝など〟って言ってただろ。そういう意味で言ったわけじゃ無いにしろ、聞く人が聞けば不満に思う」
ぽつりと呟いた言葉を、アルドはすぐに拾い上げたしなめる。
はっと口元を覆ったルルドは、隣で愉快そうに笑うアルドを横目に、やはり次期族長たる器はアルドの方だと独り言ちた。
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