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ダッドが一人で残った羊を連れ放牧に行った為、ルルドはこれ幸いとばかりにニマの元へと下る事にした。
放牧について行かなかった子羊の世話はアルドに押し付け、ルルドはニマへの手土産を詰め始める。
無難に固チーズと羊の角を袋に詰め、後は何が良いかと集落の中をぐるりと見回す。
遠くには羊を捌く男達の姿、その手前には朝食の準備だろうか、下の貯水雲海から水を運び込む子ども達の姿が見える。
あまり多過ぎても逆に遠慮されるかも知れない。
特に他に思い付かない言い訳としてそんな事を思いながら、ルルドは袋の口を閉じる。
すると、ルルドの周りだけが急に陰った。
見上げれば、そこには上衣を纏い子羊を抱えたアルドの姿があった。
「何だ、まだ出発してなかったのか」
「あぁ、土産は何が良いかと悩んでて」
ルルドの横に降り立ったアルドは、荷物の中身を覗き込みなる程と一人頷く。
アルドだけにはニマの事を伝えてあった。
ヘラルドにも伝えるべきかと悩んだが、そもそも海まで降りたと知られたら、それだけで怒鳴り散らしてくるだろう。
かと言って、ヘラルドと不仲のダッドだけに伝えるのも、後々バレてしまった時の事を考えると、伝えないべきだと判断した。
アルドは袋の中を物色しながら鼻歌を歌っている。
風追いがあまり得意では無い者は、羊毛をふんだんに使った服や小物を補助代わりに使う。
アルドの纏う上衣も、袖や裾に羊毛をあしらった物だ。
アルドはアルドなりに、可能な場所まで子羊を放牧しに行こうとしていたらしい。
ルルドは、兄のそんな姿に、自然と口角が上がっていくのに自分でも気付いた。
「この前来た狩猟族の、何て言ったか……まぁ、その狩猟族から買った、天空龍の干し肉と脂がうちに余ってるから持って行け」
荷物から顔を上げたアルドは、思い出したようにそう言うと、ルルドの返事も聞かず自宅に飛んで行く。
「いや、あまり多くなりすぎても……!」
アルドの後を追いながら、ルルドは慌てて口を開く。
しかし、追いついた頃には既にアルドは干し肉と瓶詰めの脂を手に、ルルドの元へ戻って来ていた。
「羊と弟を助けてくれた恩人だ。兄として一族の男として、感謝の気持ちを伝えたいだけだよ」
遠慮するルルドの頭を一撫でしたアルドは、陽気に笑うと問答無用でルルドの荷物に干し肉と脂を詰め込んでしまった。
ヘラルドとはまた違った、有無を言わせぬ兄の姿に、ルルドは長年の経験からここで我を通しても意味が無い事を知っている。
ルルドは不服そうにアルドの顔を見上げていたが、諦めたように頷き礼を述べた。
アルドに別れを告げ、ようやくルルドはニマの元へ出発した。
今日は子羊を追っていた時とは違い、自分のペースで自由に飛べるからか、前回よりも幾分か風に乗りやすい。
嵐の後の、荒々しくも遠方から運ばれて来た新鮮な風に、羊では無いが、ルルドも少しばかり浮かれたい気分だ。
わざと雲に足の裏をつけ、巻き上げるように滑ったと思うと、次は雲の切れ間を縫うように駆け降りる。
子どもの頃、誰しもが速さとわざを競ってやった遊びを、ルルド一人、満足するまで堪能した。
雲を抜け視界がはれたと思うと、急激に息苦しさを覚えた。
普段ならここで引き返してしまうが、そう言うわけにはいかない。
ルルドはぐっと息を止めると、一変し真っ直ぐに海を目指し急降下していった。
程なくし、ニマに会った辺りの海域に降り、恐る恐る息を吐き出す。
雲の上ほどでは無いが、やはり陸から離れた場所だと、呼吸に支障は無さそうだ。
安堵から深く息を吐き、存分に吸い込んだルルドは、今更ながらに、どうやってニマと会えば良いのかとはたと動きを止めた。
相手は海の底、訪ねる事など出来るわけが無い。
いくら焦っていたからとて、何故あの時しっかりと約束を交わさなかったのだと、ルルドは一人、頭を抱え悶絶する。
しかし、風に乗り微かに人の声がした。
陸は豆粒ほども見えない海の上。
まさかと、一縷の望みをかけ見渡してみれば、微かに沖に人影のような物が見えた。
ルルドは荷物を抱え直すと、一度上昇し、人影目掛け舞い降りる。
沖に少しばかり移動すると、先程は気付かなかったが、海に宝石を溶かし込んだかのような、眩い色彩を放っている場所があった。
目を疑う鮮やかで萌ゆる様な蒼。
深さが違う為か、所により淡いエメラルドグリーンから深い紺藍まで、多種多様な色彩を包んでいる三日月の陸。
更に降下していくと、陸と思っていた物は環礁だったらしく、光を反射する珊瑚の白さに、ルルドは見とれてしまった。
その環礁の上には、やはり人が居た。
寄り合い所か遊び場か、はたまた市なのか分からないが、多種多様な人が各々賑やかに環礁の上や中で寛いでいた。
いきなり輪の中に入らず、環礁の端に降り立ったルルドだったが、すぐに人々の注目を浴びる。
海の民だろうが、陸の民だろうが、いきなり空から降ってくればこうなるだろうとはルルドは予想していたが、実際に目の当たりにするとどうにも逃げ出したくなる。
荷物をぎっと抱えたルルドが、恐る恐る浮かび近付いてみると、環礁の中を泳いでいた女性は距離をとり、環礁の上で商いをしていた男性は身構える。
お互い敵意は無いのは分かるが、交流のない未知の種族同士。
あまり刺激するわけにもいかないと、ルルドはそれ以上進まず、立ち止まった。
「すまない、人を探していて……。第二大貝族のニマを知らないだろうか」
腰が引けて行く自分に鞭を打ち、ルルドは恐る恐る声をかける。
すると、男性達が一斉に顔を見合わせたと思うと、近くに居た女性の一人に声をかける。
なにを話しているのかは分からなかったが、女性は話を聞き終わるとすぐに、海の中へと潜って行った。
呆気にとられたルルドは、しばらく女性が泳ぎ去った方を眺めていたが、ふとすぐ側に人の気配を感じ顔を上げる。
すると、いつの間にかルルドの周りには男女問わず人だかりが出来ていた。
「兄ちゃん、まさか天上遊牧民か!」
「随分柔らかそうな服だな」
「砂色の髪なんて初めて見たよ!」
突如、我先にと口を開きだした人達に、ルルドは勢い余って飛び上がってしまった。
しかし、そんなルルドの姿を見た人達は、更に目を丸くし、聞き取れないが口々に何か言っている。
どうやら拒絶はされていないらしいが、天上遊牧民とはまた違った、賑やかでおおらかな気質に、ルルドの頭がついていかない。
徐々に高度を下げ、再び環礁に足がつくすれすれまで降りてくると、周りに集まった人は壊れ物を扱うかのように一定の距離をあけ、ルルドを物珍しそうに見回す。
「ちょっと! 皆なにしてるの!?」
徐々に気まずくなり、腰が引け始めた時、ルルドの背後から聞き覚えのある声が響く。
振り返れば、目を丸くし慌てた様子の、ニマの姿があった。
以前会った時は人形のような、微笑む程度しか表情を見せなかったニマだが、今は別人の様に驚愕の表情を浮かべ、環礁の端に身を乗り上げた。
「ニマ」
ようやく目的の人物に会えたと、ルルドはほっと頬を緩ませる。
皆友好的だったが、やはり見世物のような扱いは、変に気疲れするらしい。
ルルドの笑みに、エマが顔を真っ赤に染める。
ルルドもまた、前回会った時に、ここまで自然な表情は見せていなかった。
両頬に手を添えるニマの後ろから、先程海に潜っていった女性が顔を出す。
どうやら彼女は、ニマを呼びに行ってくれたらしい。
それを理解したルルドは、女性に微笑み一礼すると、ニマの前に降り立つ。
「ニマ、借りていた皮――」
「あの! 場所、変えない……?」
ニマの前に膝をつき、荷物を開きながらルルドが話し始めると、すぐにニマが話を遮る。
気恥ずかしそうにルルドの後ろに視線を泳がすニマの姿に、ルルドはゆっくりと振り返る。
すると、周りに居た人達が、皆一様に顔を綻ばせて二人を見つめていた。
すぐに状況を理解したルルドは、荷物を縛り直すと、再びその場に浮き上がる。
「どこ行く?」
人の視線から逃げるように、ふわりとニマの後ろに回り込んだルルドは、周りを見渡しながら問いかける。
「えっと……ついて来て」
ニマも周りを見渡し、顔を綻ばせる人達の姿に再び赤面すると、大きく一度水を蹴り、泳ぎ出す。
水面を泳いでくれているお陰で、ニマの姿を見失う心配は無さそうだ。
ルルドはもう一度環礁に向き直ると、そこに居る全ての人に向け深々と一礼し、空に舞い上がる。
ニマの泳ぐ姿は、魚を思わせる無駄の無い動きで、泳ぐと言うよりも、滑っていると表現した方が相応しい。
海には、ニマを中心に、左右に白い線が引かれていく様は、海に思いのまま絵を描いていくようで美しい。
しばらくニマについて行くと、突然白い塊が海上に現れた。
全貌を確かめる為、一度空に舞い上がってみると、それは巨大な生物の骨であった。
ニマはその骨の、肋骨と思しき曲線を描く骨に飛び乗ると、眩しそうに手を添え空を仰ぐ。
やはり目的地はそこかと、ルルドは躊躇いなく降下すると、ニマの隣に降り立った。
「ごめんね、その……皆が騒がしくて」
ルルドが腰掛けてすぐ、ニマはぽつりとそんな事を溢す。
荷物を降ろしながら、ルルドは何の事かと動きを止めたが、すぐ先程の環礁での事だろうと、軽く笑い飛ばす。
「いきなり飛び込んだ他種族の俺に、みんな親切にしてくれた。賑やかで、とても良い人達だった」
ルルドは先程の事を思い出したのか、眉を下げにっとニマに笑いかける。
その、本心から言ってるが、どうにも気押されたと言わんばかりの表情に、ニマもつられて笑ってしまう。
「これ、ありがとう。本当に助かった。それと、これは兄さんから。羊と弟を助けてくれてありがとうって」
ルルドはニマに大鮫の皮を手渡しながら、手土産を一つずつ取りだし、簡単に説明していった。
固チーズと羊の巻き角を手に取ったニマは、驚きのあまり大きく口を開けたまま動かなくなり、更に天空龍の干し肉と脂を取り出すと、後ろに倒れそうになる。
慌ててルルドがニマの手を引き難を逃れたが、ニマは片手で頭を抱えると、信じられない物を見るように手土産に視線を落としている。
一向に動かないニマの姿に、ルルドは海底遊牧民のしきたりか何かに触れたのかと、急に不安になった。
「ごめん、何が良いか分からなかったから……。何か都合の悪い、苦手な物とかあった?」
不安げにニマの顔を覗き込むと、ニマはゆっくりと顔を上げルルドを見つめ返す。
そしてゆるゆると左右に首を振ったと思うと、今度は猛烈に首をふり、両手でルルドの手を握り締める。
「違うの! 違っ、そんな、都合の悪い物なんて……。そんな、皮一枚貸しただけなのに、こんな高価な物ばかりでどうしようって……」
「えっと、困らせてごめん」
「だから違うのー!」
そんなそんなと狼狽え、違う違うとルルドの手を引き左右に頭を振るニマの姿に、最初こそ戸惑っていたルルドだが、徐々にその慌てぶりが面白く思えてくる。
手に持ったままこんな高価な物をと、震えるニマの姿に、ルルドはすっかり緊張が解れた。
「どれも俺と兄貴の家に残ってた物だし、気にせず貰ってくれるとありがたい。今年は羊の数が大きく減ったから、あの子羊は何物にも代えられない、一族の宝だったんだ」
ルルドはニマが握り締めている固チーズを取ると、他の物と一緒に袋の中に詰め直し、もう一度ニマに手渡す。
慌て過ぎて真っ赤になり泣き出しそうな顔のニマは、眉を下げ荷物とルルドの顔を交互に見ては、言葉が出ないのか口を魚のように動かす。
思っていた反応とは幾分か違ったが、一先ず珍しい物を渡せたらしく、ルルドは勝手に満足げに微笑む。
「チーズと脂……」
「うん?」
ぽつりとニマが小さな声で呟いた。
ルルドは、聞き逃さないように体勢を変え、ニマの話に耳を傾ける。
「私の一族は、大きな蟹を育ててるの。甲羅だけで、さっきの環礁くらいの大きさの……」
ぽつりぽつりと話すニマの言葉に、今度はルルドが動きを止めた。
先程の環礁は、確かにそこまで巨大だったわけでは無い。
むしろ、こじんまりとした大きさで、上空からでも、目を凝らさないと見逃してしまう程だ。
だが、それでも環礁の内側は、直線距離で五メートルはあったはずだ。
その環礁と同じ大きさの蟹となると……。ルルドはそこまで考えるも、想像の限界に目眩を覚える。
「年一回、産卵の為にここに戻って来て、私の一族はその時に蟹に乳をわけて貰ってるの」
五メートルの蟹の乳。
ニマの話に相槌を打ちつつも、ルルドの頭には疑問が振り積もっていく。
「でもやっぱり蟹だから、チーズを作れる程の脂が無いの。だから、本当に貴重で……」
そこでようやくルルドは、ニマの伝えたい事を理解した。
遠くで魚が跳ねるのが見えた。
貴重と言うだけで、無いと言うわけではないらしい。
チーズが作れ、脂がとれる生き物が海にいるのかと、ルルドは湧き出す好奇心に気分も高揚していく。
「じゃあ次ぎ来る時は、もっとチーズと脂を持ってくるよ。あ、でも、次は羊かヤクの脂になるかもしれない」
「えっ?」
朝捌いていた羊を少し貰おうか等と算段しているルルドの隣で、ニマが素っ頓狂な声を上げる。
「あれ? もっと他に入り用な物が? 羊毛とか? いや、そうなると道具も必要か。棒針よりかぎ針のが楽かな。待てよ、そもそも道具を渡しても、誰が編み方を教え……」
ニマの声にルルドは再び考え直す。
確かにチーズと脂は珍しいと言ったが、角と干し肉も珍しいだろう。
それ以上に、聞けば更に珍しい物があるかもしれない。
決めるには早計だったかと、ルルドが見つめると、ニマは再び勢い良く左右に頭を振り出した。
「また、来てくれるの?」
「えっ?」
たっぷりと間を置き口を開いたニマの言葉に、今度はルルドが素っ頓狂な声を上げる。
確かに、ルルドは無意識に、また来る前提で話をしていた。
自分でも何故そんな事を言い出したのかと、ルルドはゆっくりと頷き、最後にこてんと小首を傾げる。
すると、ニマも一緒になって頷き、そのままくてっと小首を傾げた。
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