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折角出来た縁だ、一度や二度くらいこうして会いに来ても、呼吸に支障をきたす前に空に戻れば問題ないだろう。
ルルドは未だ小首を傾げたままのニマの顔を眺めそんな事を考える。
しかし、どうにも自分は相変わらず状況に流されやすい性格だなと笑ってしまった。
すると、そんなルルドの考えなど分かるはずも無いニマは、ルルドの笑顔を見るなり、嬉しそうに純粋に顔を綻ばせた。
ルルドは、そのニマのあまりにも屈託のない笑顔に言葉を失ってしまった。
「そうだ! さすがにこれは貰いすぎだから、私も何か持ってくるね! ちょっと待ってて」
ニマは思い立ったとばかりに一度手を叩くと、そうルルドに言い残し、返事も聞かず海に潜ってしまった。
ニマが潜る時に飛んだ水しぶきに、ルルドが一瞬顔を背けた間に、もうニマの影も見えなくなっていた。
一人ぽつんと残されたルルドは、特にやる事も無く、改めて袋の口を閉めぼんやりとただ座り込んでいた。
遊牧に出ている間も、集落に帰って来ても、ルルドはこれ程ゆったりとした時間を過ごしたことが無かった。
やる事も無くただ時間が過ぎるのを待つだけだった嵐の二日とはまた違った、ゆるりと頬を撫でる風を思わせる、満ち足りた時間。
すぐ足元に広がるのは広大な海。
つい数日前までは間近で見るなど思わなかった海。
まことしやかに、舌を刺すような塩分を含んだ巨大な水たまりだと聞いていた海が、今はすぐ足の先で穏やかな音を立てている。
打ち付ける白波を、いつまでも飽きず眺めていられるなと思っていた矢先、徐々に海の底から黒い影が浮上してくる。
だんだん大きくなる影は、次第に人の形になり、勢い良く海面に飛び出してきた。
「待たせてごめんね! 潜ったら、噂を聞きつけた人達に質問責めにされちゃって……」
ニマは抱え切れていない程、何かを包んだ大きな大鮫の皮を手に、ほとほと困ったようにルルドを見上げて来た。
環礁で少し見ただけだが、確かに噂好きそうではある陽気な海底遊牧民達の姿を思いだし、ルルドは釣られて笑ってしまった。
どこかニマは恥ずかしそうに顔を染め俯いているも、すぐにルルドの隣に腰掛け直すと、持って来た包みを開く。
中には、乳と思われる真っ白な液体の入った瓶と、口の所を念入りに閉じられた手の平ほどの二枚貝、それと、ニマが両手を伸ばした長さを上回る程の、大きな鮮魚が一尾包まれていた。
「こんなに……これじゃ今度は俺が貰いすぎだよ」
「良いの。私も家にあった物を引っ掴んで来ただけだから」
初めて会った時の印象とは打って変わり、にこにこと笑いはっきりと意見を言うようになったニマに、ルルドはほんの少し頬を緩める。
ニマは満面の笑みを浮かべながら、持って来た物を一つずつ説明していく。
「これはさっき話した蟹の乳。さらりとした飲み口だけど、栄養は豊富よ。あと、これは軟膏を詰めた貝。貝の粘液とすり潰した海草をよく混ぜて作った物で、痛む関節とか切り傷に塗る薬なの。保湿効果もあるから、環礁の市で働く女の人には喜ばれてるの」
一つずつ中身を見せながら、ニマは丁寧に説明してくれた。
蟹の乳は、ヤクや羊の物と違い匂いは無く、瓶を傾けても残らずさらりとすぐに流れていく。
癖は無さそうなので、下手したらぐいぐいと飲んでしまうかも知れない。
次ぎに、貝の口を固定していた大鮫の皮と海草の紐を外す。
大振りの貝の中には、たっぷりと乳白色の軟膏が詰まっていた。
試しに少し手に取ってみると、やはり粘液を使っているからか、べったりと指に貼り付くような粘度がある。
しかし、手の甲に擦り込んでみると、すぐにさっぱりと肌に馴染み、嫌な感じはしない。
物珍しく貝を眺めているルルドの横で、ニマは魚をルルドの膝の上に置く。
「これは見た通り鮭。と言っても、魚の事はあまり分からないよね」
「いや、空にも魚は泳いでるけど、これは俺の知ってる鮭の大きさとは明らかに……」
鮭と言われ、ルルドは手元の魚に視線を落としたまま言葉を失う。
ルルドの知っている鮭は、例えどれ程大きくなろうとも片手で持ち上げられる大きさだ。
もう一度問うようにニマに視線を移すと、ニマもまた、空に魚がいるんだと、小さな声で驚いていた。
「空の鮭は小さいの? この辺りだと、大体どの鮭も二メートル位にはなるかな。大きいものはもっともっと大きくなるの」
不思議そうに話すニマの横で、ルルドは鮭を持ち上げながら驚きを隠せずにいた。
「凄いな。これ一匹で、しばらく食べるに困らなそうだ。それに、この軟膏はうちの婆様が喜ぶと思う。空は乾燥するから羊の脂を塗ったりするんだけど、どうにも使用感が悪いんだよな。しかも関節の痛みにも効くんだろ? 海は色々あって面白いな。生憎今は手持ちが無いが、後で市を見学させてもらっても良いだろうか。無理な話だけど、出来ればいつか、海の中にも行ってみたいな……」
鮭の鱗を大事そうに一撫でしたルルドは、再び貝を開け軟膏を確認すると、目を輝かせる。
何もかもが初めて見る物。
鮭のあまりの大きさに状況を飲み込めていなかったが、理解するに従い、好奇心が膨れあがってくる。
しっかりと貝の口を閉じたルルドは、ニマにお礼を言おうと顔を上げる。
すると、何故かルルド以上にニマが、目を輝かせ身を乗り出しルルドの事を見つめていた。
「どうした?」
荷物をまとめ横に置いたルルドが端的に問えば、ニマは更に嬉しそうに目を見開いた。
「私達にとっては何も珍しくない、常にすぐ側にある物でこんなに喜んでくれるのが、凄く嬉しいの。そして海も褒めてくれたし、来たいとも言ってくれた。私達には当たり前の世界を、外の人が気に入ってくれたのが嬉しいの」
ニマは感極まり、徐々に鼻声になっていく。
素直に思った事を口にしただけのルルドは、目を潤ませ声を震わせるニマに、どうして良いか分からず、意味も無く両手をばたつかせる。
すると、ルルドの視線の先、海上に小さく影が落ちたのが見えた。
ニマの様に海底から何かが上がってくる影では無く、空の上でよく見る、何かが上にいる時に出来る影。
ルルドは見慣れた影を見付けると、すぐに空を仰ぐ。
つられてニマも顔を上げると、二人を目掛けて、馬に乗ったアルドが降りて来た。
「兄さん!?」
二人のすぐ前に降り立ったアルドは、息苦しそうに一度深く息を吐くと、疲れが残る顔で軽く手を振る。
いくら馬に乗って来たとは言え、風追いでは無いアルドがここまで降りてくるのは、相当時間がかかっただろう。
ましてや、アルドはこの場所を知らない。
相当探し回ったかも知れないと思うと、アルドの疲れた顔の説明がつく。
ニマは初めて見る空の馬と、羊毛をあしらった上衣を羽織ったアルドの姿に、呼吸をしているのか確認したくなる程、瞬き一つせず動かなくなってしまった。
「あなたが子羊を助けてくれたニマさんですね。ご挨拶が遅くなりました。私はルルドの兄のアルドと申します。その節は大変御世話になりました」
突然現れたアルドに、二人が言葉を失っている間に、アルドは気にせず自己紹介を始めてしまった。
息を整えにっこりと微笑むアルドに対し、ニマは定期的に頷く人形のようだ。
「兄さん、それを言いにここまで? 陸から離れた場所って言っても、ここまで降りると苦しいだろうに」
気遣わしげにルルドが声をかけると、ニマがはっと息を飲んだ。
ある一定の空域から脱し、陸から離れれば比較的呼吸は出来るものの、やはり息苦しさは残る。
ルルドは普通に会話をし、空を飛びニマの後を追っていたが、実際は口に布を一枚か二枚押し当てているような息苦しさを感じていた。
アルドはその問いにはすぐに答えなかった代わりに、心配そうに眉を下げてしまったニマの頭を、ぽんぽんと軽く撫でる。
「そりゃまぁ、な。でも、それ以上に価値のある経験をしているよ」
アルドは海を見渡し波音に耳をそばだて、再びニマににっこりと微笑んだかと思うと、一変し真剣な面持ちでルルドに視線を移す。
「少し、上で問題が起きた。あぁ、お前がここに居る事じゃ無いから、そこは安心して良い。だが、少しだけ厄介でな……今日はもう戻った方が良い」
少し、少しと、言葉をはぐらかしながら話すアルドに、ルルドは顔を引き締める。
普段アルドは飄々とし、つかみ所の無い話し方だが、ここぞと言う時は誤解の無いようにはっきりとしっかり伝える。
わざわざここまでルルドを呼び戻しに来る程の事が起きているのに、言葉を濁すと言う事は、ニマに聞かれたくない事なのかも知れない。
ルルドは無言で一度頷くと、荷物をまとめ浮かび上がる。
不安そうに顔を上げたニマに、ルルドは振り返りながら先程と変わらない笑みを向けた。
「お礼に来たのに、また逆に色々と貰ってしまった。次ぎ来る時は脂とチーズの他に、また物珍しそうな物を持ってくるよ。その時はまた、環礁に行くから。今日は本当にありがとう! またな」
ルルドは別れの挨拶を済ませると、手早く馬に荷物をくくりつけ、もう一度ニマに頭を下げる。
慌てて骨の上に立ち上がったニマに、アルドも手を振ると、そのまま空へと飛び上がった。
次第に息苦しさが増し、肺が潰れそうに悲鳴を上げる。
そのまま飛び続けある一定の層を過ぎた辺りで、ふっと肺が楽になった。
どちらからともなくほっと安堵の息を吐く。
「さっき言ってた問題って? 羊の売り先が見付からなかったとか、残りも駄目になったとか……」
身内の不幸かとも思ったが、真っ先に頭に浮かんだのは今朝の羊の事。
舞い上がりながら、いつの間にか日も傾き夜になろうとしていた事に、今更ながらルルドは気付いた。
「似たような事かな。まだ確証も無く、親父の勝手な意見だが
、ダッドが残りの羊を全て連れ行方をくらませた。家族を置いて、必要最低限の荷物だけ持ち出し、まだ帰って来ない」
アルドの言葉に、ルルドは信じられないと頭を振った。
ダッドは何よりも羊を大切にし、家族を、一族を大切にしてきた。
ダッドに限ってそんな事はと、ルルドは信じられないとひたすら首を振る。
しかし、長い遊牧生活から戻ったのはつい最近。
夜間放牧に行くほど餌に困っているわけでは無く、勿論また長期間の遊牧に行くわけでも無い。
それで、この時間に戻っていないとなると……。
いや、少し遅れているだけかも知れない。だが、弱っている羊をそこまで遠くに連れて行くだろうか。いや、弱っているからこそ帰りが遅いのかも知れない。
否定と肯定が入り交じるも、ルルドはにわかに信じられないと、アルドの顔を見上げた。
「言ったろ、まだ確証も無く、ただ親父が一人で騒いでるだけだ」
アルドはいつも通りの柔らかい笑顔を浮かべたが、ルルドの不安は確かなものとなった。
普段、アルドはダッドの事を叔父と呼ぶ。
そのアルドが先程の説明の時、叔父とは言わずダッドと言った時、もう確定した事なのだろうとルルドは察していた。
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