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二人が集落に戻ると、馬に跨がったヘラルドが、男衆と何やら口論をしていた。
振り返り、馬と荷物を置いてくると駆けて行くアルドに、ルルドは一つ頷くと、そのままヘラルドの元へ急ぐ。
どこかへ行こうとしているらしいヘラルドを、男衆が引き留めているようだ。
ルルドが来た事に気付いた男衆は、急かすようにルルドの腕を引く。
「父さん、何があっ――」
男衆に背を押され、矢表に立たされたルルドが口を開きかけた時、仰ぎ見たヘラルドのあまりの鬼の形相に、言葉が続かない。
「裏切り者を追う」
怒りに震える唇で、ヘラルドは端的に溢す。
まるで、それ以上言葉を発すれば、怒りで体が破裂でもするかのように、ヘラルドは言葉を選び気持ちを落ち着かせようとしている。
「裏切り者って……。もう日が暮れる。俺が探しに行くから、父さんはここに残って皆に説明を。今後の事も考えないと」
「族長として、自らの手で裏切り者を捕まえ、罪を償わせる。お前はここに残って英気を養え。今後の事は、全てが片付いてから考える。今は一刻も早く、裏切り者に制裁を……!」
もう空は半分藍色に染まり、もう間もなく完全に日も沈む。
ルルドは極力ヘラルドを刺激しないよう、自ら役割を買って出る。
しかし、怒りに支配されたヘラルドの考えは変わらないらしく、瞳に宿った炎を燃え上がらせ、雲の果てを睨み付ける。
これはもう何を言ってもしょうがないと、ルルドはほとほと困り周りの男衆に視線を流す。
やはり、皆思いは同じらしく、顔を曇らせたまま言葉に困っているようだ。
すると、馬が大きく嘶くと、天高く前足を上げ一歩踏み出す。
「風追いと言えど、羊を連れている以上、まだそう遠くへは行っていないはずだ! 二、三日で戻る!」
ヘラルドは馬上で天高くそう宣言すると、鞭をしならせ馬を走らせる。
馬のすぐ側にいたルルドの腕を、近くにいた男衆が掴み引き寄せる。
急に走り出した馬に、間一髪後ろ足で蹴られはしなかったが、驚いているその間にも、馬はどんどん小さくなっていった。
誰の話も聞かず、一方的に声を上げ行ってしまったヘラルドに、全員何が起こったのかとお互い顔を見合わせる。
冷たい風が頬を撫で、ルルドは真っ暗になった空を見上げる。
振り返り一度頭を下げると、謝罪と、日も暮れたので今日は一先ずここでと、丁寧に言葉をかける。
ルルドの言葉に、男衆は口々にもうこんな時間かと驚きの声を上げ、にかっと笑いルルドの頭を無骨に撫で回すと、そのまま家路についた。
頭を撫で肩と背中を叩き、皆ルルドを慰めているようだ。
去って行く男衆の背中を見送ると、ルルドは俯き、その場に座り込んでしまった。
遠くでは煮炊きをする匂いと煙、一家団欒の笑い声や赤子の泣き声など、普段と何ら変わらない風景。
ぽつんと闇夜に一人座り込んでいると、アルドが戻ってくるのが見えた。
「親父は……やっぱり行ったか」
「止められなかった」
「お前のせいじゃない。親父の頭がおかしいんだ」
腕を組みルルドの前に立ったアルドは、ヘラルドが消えた方を見据えながら、何とも無いように言ってのける。
その歯に衣着せぬ傍若無人な兄の姿に、ルルドは一気に体の力が抜け、アルドの足元にごろりと体を転がした。
「何だ、風追いを辞めて、猫にでもなったのか?」
「猫になっても、兄さんの足には絶対擦り寄らないから、安心して」
仰向けに寝そべり、足を組みふてぶてしく頬杖をつくルルドは、にやにやと見下ろしてくるアルドの姿に、ふんっと顔を背ける。
小さく笑ったアルドは、ルルドに手を差し出す。
「海で貰った土産は、こっそり婆様の所に運んでおいた。行こう。行って話がてら、晩飯をねだろう」
冷静な判断力と子どもの発想が共存するアルドの頭に、ルルドは思い切りふき出すと、そのままアルドの手を掴み起き上がる。
「そう言えばでかい鮭を貰ったんだった。あれで何か作って貰おう」
「鮭? あれが? ははっ凄いな」
やはりアルドもあの巨大魚が鮭だとは思っていなかったらしく、ルルドの言葉に目を丸くする。
ルルドはゆっくりと飛び上がると、アルドの服の裾を掴み、婆様の所を目指す。
雑談をしながら、アルドを引き連れたルルドは、一番高い位置にある婆様の天幕に降り立つ。
一言声をかけ中に入れば、囲炉裏端に並べた土産を、物珍しそうに眺める婆様の姿があった。
「婆様、騒がしくてごめんよ」
「本当ですよ。全く、アルド様は昔から何か隠す時は婆の所へ持ってくるんですから。ほら、外はまだ冷えるでしょう。こっちにおいでなさいな」
わざとらしく猫なで声を出すアルドに、婆様はつんと顔を反らすも、すぐにふわりと笑い二人を招き入れた。
二人には、もう勝手知ったる家。
子どもの頃から何かあると遊びに来ては、実の祖母のように、盛大に迷惑をかけ盛大に怒られ、盛大に甘やかされてきた。
慣れた手付きで天幕を閉めると、ルルドはアルドの後を追って囲炉裏端へ腰を降ろす。
「また随分面白い物を持って帰って来ましたね。海の物となると、ルルド様かねぇ」
「見ただけで海の物って分かるの?」
「空にこんな大きな貝はありませんよ。それに、仄かに潮の香りもします」
婆様の言葉に、二人は素直に驚き何度も頷く。
早速アルドは、土産の鮭で何か出来ないかと言い、では捌いて下さいと、ナイフを手渡された。
渋々アルドは婆様の指示通り鮭を三枚におろし、今日食べる分だけを切り分けると、残りは天幕の梁に吊す。
その間笑って見ていたルルドも、鍋にお湯を沸かしてくれと指示を受け、せっせと薪をくべていた。
「湯? てっきり揚げるか焼くかのどちらかかと思ってた」
「半分は焼きますよ。揚げても良いんですが、折角ルルド様が遊牧から戻って来てますから、たまには芋も食べて貰おうかと思いましてね」
梁に切り身を吊しながら、アルドが問いかけると、婆様は笑いながら芋の皮を剥き始める。
一度遊牧に出れば、食べるのはもっぱら粉を練って焼いた物と茹でた肉、それと水代わりの酒位。
こうして家に戻って来ている時だけ、定住生活だからこその物が口に出来る。
ルルドは煙にむせながら、婆様にありがとうと頭を下げる。
剥いた芋と一口大に切った鮭を鍋に入れ、塩と幾つかのハーブを入れ、軽く煮込む。
煮汁が程よく無くなってくると、天幕内は食欲をそそる温かな匂いに包まれた。
「これだけ良い匂いをさせてたら、誰か匂いに誘われて来てもおかしくないな」
「ははは。婆の家は一番端の高い所にありますから、この時期は最風下ですよ」
「それでも、兄さんだったら気付きそうだ。この匂いで燻されたら、吊した切り身もさぞ旨く……あぁ、婆様、もう食べても良い?」
子どものように鍋を覗き込む二人の姿に、婆様は目尻のシワを更に深め笑うと、大皿に料理を取り分ける。
鮭と芋の塩ハーブ煮と、囲炉裏の端で串焼きにしていた切り身、それと、水代わりの酒とパンを囲炉裏横の布膳に広げると、食前の祈りを捧げる。
祈りを捧げ終わった二人は、もう一度婆様を見る。
二人の視線に気付いた婆様は、呆れたように小さく笑うと、一つ頷き二人に食を進めた。
待ってましたと、二人は料理に手をつける。
ことことと煮込まれた鮭は、はらりと崩れ、口の中いっぱいに甘い脂が広がる。
芋も中までしっかりと鮭の味がしみており、全ての旨味を贅沢にその身に溜め込んでいる。
空の鮭よりも大振りで肉厚、更に脂も滴る程たっぷりとのった海の鮭は、二人の知るそれとは一線を画く旨さだった。
「鮭ってこんなに旨かったのか」
「ルルド、焼き鮭も食べてみろよ。煮た物より脂が濃厚だ。これなら油を使わなくても、鮭自身の脂で揚げれそうだ」
アルドの言葉に、ルルドはすぐ焼き鮭を口に運び、胡座をかいた膝を震わせ、旨さを噛み締める。
ここ何年か、あまり油物を好まなかった婆様も、煮た鮭は美味しそうに口に運んでいる。
あっという間に完食した三人は、食べ終わった後もしばらくぼんやりと余韻に浸っていた。
アルドとルルドは食べ過ぎたのか、苦しそうに胡座をかいたまま後ろに手をつき、上体を反らしている。
婆様ですら、にこにこと笑いながら自分の腹をさすっていた。
「良い物を食べさせて貰いました。他にもなんやあるみたいですが、お二人とも今日持って帰ります?」
満足げに呟いた婆様は、ふと、他にも土産はあったなと思いだし、二人に問いかける。
すると、二人もすっかり忘れていたのか、はっと息を飲むと、天幕の端に寄せてあった貝と瓶を手繰り寄せる。
「これは蟹の乳で、こっちは軟膏だって話だ。婆様、ちょっと手を貸して」
ルルドは貝の口を開け軟膏を一掬いすると、婆様の手に塗り広げていく。
「これは良いですねぇ。あかぎれの痛みがぴたりと治まりましたよ」
「良かった。婆様に渡そうと思ってたんだ。関節の痛みにも効くらしいから、寝る前に膝に塗り込んだら良い」
ルルドは貝の口を閉じ、婆様に渡す。
ルルドが片手で持つ貝を、小さな両手で受け取った婆様は、嬉しそうに貝をさすると、大事に戸棚へとしまう。
「これが蟹の乳? はぁ、海にはどうにも不思議な物があるんだな」
「俺も未だに信じられない。聞いた話だと、体だけで五メートルを越す蟹の乳らしい。ニマ達の一族は、その蟹を遊牧してるって話だ」
ルルドは今日見聞きした事を、二人に話した。
蟹の事に環礁の市、大きな鮭に、チーズと脂が喜ばれた事。
思い付く限りの事を話すうちに、ルルドはニマの事も海の事も、まだまだ知らない事だらけだと気付いた。
全てが目新しく、色んな発見があったのも事実だが、分からないことの方が多い。
「出来れば婆様にも見せてあげたいけど、陸から離れた海面すれすれでも息苦しいから、難しいか……」
肩を落としたルルドは、意見を求めるようにアルドに視線を向けると、アルドも眉を下げ悩むようにゆっくり頷いた。
「それはそうですよ。私達の肺は、この高さと空気で生きるように出来ているんです。高度も空気の濃さも違う場所で、息苦しさを覚えるのは当たり前です。反対に、海や地上の人達は、ここでは一呼吸も出来ないでしょう。肺だけじゃありません。骨も違いますし、私達は風を掴めますが、海の中では息が出来ません。同じ人では無く、全く別の種族に進化したようなものです」
婆様の言葉に、二人は納得するように深く頷く。
嘘か本当か分からないが、空に住む生き物は地上に住む者より、驚くほど体が軽いらしい。
厳密には、筋肉の作りが違い、骨の内部が空洞になっている。それは上手く風に乗る為そうなったと言われているが、例え呼吸が出来たとしても、体が弱い分、地上では生きて行けないだろう。
丁度会話が途切れた時、天幕の入り口が不自然に揺れた。
誰か来たのかと三人が視線を向けると、入り口に顔をつっこみ、必死に藻掻く子羊の姿があった。
ダッドの放牧についていかず、アルドに預けていたはずの子羊だった。
どう言う事かと婆様がアルド視線を向けると、アルドは分からないと首を振る。
どうにか天幕の中に体をねじ込んだ子羊は、一度大きく体を震わせた後、楽しそうに跳ねながら真っ直ぐルルドの元へ来るなり、膝の上に跳び乗った。
「そう言えば、まだお前が残ってたな」
「おかしいな、ちゃんと家に置いて来たはずなんだが……」
子羊の背中を撫でながら、ルルドは顔を緩ませる。
どうやら子羊は、アルドの家を自力で抜け出して来たらしい。
背中を撫でられ満足そうな子羊は、天幕の中を跳ね回り、アルドの足に跳び乗り、婆様の膝にすりよる。
「この子だけ残ったんだねぇ」
婆様の言葉に、二人は身を固くする。
外で何があったか、もう既に婆様の耳にも届いていたらしい。
気まずそうに黙り込む二人の姿に、婆様はゆっくりと子羊の尻を押し、ルルドの元へと帰るよう促す。
「私ら風追い以外は元々ここで暮らしてますからね。私らには芋用の大陸亀がいます。その気になれば他の作物も育てられます。例え羊が居なくとも、そうそうすぐにくたばってやったりしませんよ。……お父上は好きにさせておきなさい」
「好きに……。昔から、族長だなんだと言いつつも、自分の好きに生きている人ですよ」
ルルドは戻って来た子羊を膝の間に座らせると、ため息交じりにこぼした。
本来、族長だからと言うのであれば、ダッドの捜索には村の男衆を数人を宛てがい、もしもの場合を想定して、自分は残り、失った羊か羊に変わるものの補填をどうするか考えるはずだ。
族長だから族長だからと、ヘラルドが一人熱くなり喚き散らすのは、やはり、兄弟同士の確執や、お互いの立場のせいだろう。
ヘラルドは兄で族長だが風追いの才は無い。ダッドは弟だが、一族の羊を任される風追いだ。
伝え聞いた話では、やはり子どもの時分からヘラルドは、ダッドにあって自分には才が無い事を気にしていたらしい。
その為兄弟仲は悪く、族長になってからも、何かとダッドと衝突していた。
そんな兄弟の姿を、婆様はずっと見て来た。
そして、そんな父と叔父に挟まれた、同じく風追いの才が無い兄アルドと、風追いの弟ルルドの苦労を見て来た。
俯くルルドをしばらく見つめていた婆様は、ゆっくりと立ち上がると、囲炉裏でお湯を沸かし直しなおす。
「最近は昔と比べ、この辺りも随分と穏やかに風が通るようになりました。遊牧に行かなくとも、十分羊も育ちましょう。羊でなくとも良いのです。私達は空の民。自由にどこへでも行けるのです。このババとて、その気になれば引っ越しくらい出来ますよ。好きな物をこさえて、好きに生きる。そろそろ、昔からの習慣を捨ててしまっても良い頃でなないですかね」
家族を蔑ろにしても、それでも昔からの習慣に拘り、頑なに完璧な族長を目指すヘラルドには、決して聞かせられない言葉だ。
こんな話をする婆様は珍しく、アルドとルルドは不思議そうに視線を交わす。
「そうですねぇ、芋の他には、ババはきびが作りたいですな。昔はようけ市できびときび粉を買って食べたものです。あと豚は育てやすく多産です。群れないので遊牧は出来ないですが、囲いの中で育てるにはもってこいですよ。豚の毛は針金のようで羊と勝手は違いますが、脂も身も牙もとれる」
「婆様、何の話をしてるんだ?」
たまらずルルドが問うも、婆様は湯呑みにお茶を注ぎながら、のんびりと笑う。
そこで一度会話を区切った婆様は、二人の前に入れ立てのお茶を差し出し、再び元の場所に座り直すと、ゆっくりと膝を伸ばし、痛そうに擦る。
「大昔は風追いなんて言葉はありませんでした。皆で風に乗り、遊牧に行くのは当たり前だったのです。ですが、月日が経つ毎に風を追いきれない者が出始め、今じゃ風を追えるのはダッドとルルド様だけ。将来、ルルド様やアルド様達の子どもに、風追いが産まれる保証も無い。もう、そういう時代になったのかも知れない。この時期に羊が減ったのも、偶然では無いのかも知れないですよ」
困惑するルルドをよそに、アルドはいつの間にか真剣な面持ちで婆様の話に聞き入っていた。
そのアルドの姿に、ルルドは分からないなりにも、深く心に留めておこうと思った。
座り直したアルドが、湯呑みを手に取りしばしそれを眺めたあと、一度ルルドに視線を送ったあと、真っ直ぐに婆様を見据えた。
「では、この時期に羊が居なくなり、あの二人が村を飛び出し、ルルドが海に降りたのは偶然では無い、と」
「そうかも知れないという、ババの勝手な想像ですよ」
ころころと笑う婆様に、アルドは口角を上げ不適に笑う。
「遊牧に行かなくとも引っ切り無しに風が吹き抜けるこの時期に、上衣も羽織らず単身飛び出して行けば、例え馬に乗っていようが、無事戻れるとは言い切れない。ましてや荷物も持たずに」
ヘラルドの事を言っているらしいが、そのあまりに酷い口ぶりに、ルルドは開いた口が塞がらない。
ルルドには分からないが、上衣を羽織り馬に乗って海まで降りたアルドが言うのだ、この時期の遠出は風追い以外には辛いのかも知れない。
「無事に戻ったとしても、皆が迎えてくれるかどうか。なら、この機会に俺とルルドの二人が族長、または族長代理として動いても、なぁんにも問題ないと思うのは、俺だけかな?」
アルドの言葉に、ルルドは勢い良く立ち上がる。
立ち上がった拍子に湯呑みが倒れ、驚いた子羊が婆様の膝へと跳んで行く。
「兄さん、何言って……」
「ええ、ええ。ババは大賛成です」
今度は暢気に賛同する婆様に、ルルドはようよう言葉を失ってしまった。
「この時期は雲海の上に市があったはず。きびの種と豚。無かったら近くに来てる一族からヤクでも何でも買ってくれば良い。よし、少し休んだら行ってくる。夜中に出れば明け方には着くだろ。なぁルルド、お前の馬借りてっても良いか? あいつは風に乗るのが上手いから頼りになるんだよ」
颯爽と立ち上がったアルドは、上衣に異常が無いか確認すると、思い出したようにルルドに視線を向ける。
思い立ったら人の話を聞かないのはヘラルドそっくりで、アルドは一度やると決めれば、もう意思は曲げない。
助けを求めるように婆様を見るも、婆様は助けてくれるどころか、戸棚から羊の毛をふんだんに使った帽子と、いくらかお金を取り出し、アルドに手渡していた。
「いや、待って兄さん。どうしても行くなら俺が行くから。いくら何でも夜に飛ばせないから」
「駄目だ。羊から手を引くとなると、今までとは違った新しい販路の確保もしたい。ルルドはまた海に降りて珍しい物を買って来いよ。その間に俺が買い付けてくる。お前か馬の足じゃなきゃ、あの息苦しい空域を抜けられないだろう」
アルドはルルドの頭を子どもにするように撫で回すと、婆様から貰った帽子をしっかりと被る。
「ほほほ。何も馬と一緒にしなくとも。アルド様も、変なとこばっかりお父上に似て……ほほほ」
「えー。今日俺を焚き付けたのは婆様だろぉ?」
近所にでも行くような気軽さで話す二人に、ルルドは素直に見送れずにいた。
「ルルド。今、結局親父と同じ事するのかよって思ってるだろ。俺もそう思う。けど、俺達はお互い今やらなきゃいけない事をやらなくちゃいけない時期だ。村を置き去りにして、無意味な兄弟喧嘩を始めた親父とは違うって思いたい。俺達は前を見て変わり行く環境に適応しないといけない世代らしい。俺は風追いの才は無いけど、親父達とは違って、お前と仲良く生きていきたいと思ってる」
急に真面目な声色で語り、真っ直ぐに自身を見つめるアルドの姿に、ルルドは言葉を飲み込む。
たまらずルルドは視線を下げ、葛藤するように頭を掻きむしると、少し間を置いてからアルドが話を続けた。
「朝、お前に羊が駄目になったと伝えた時、風追いの習慣は捨てても良いと思ったんだよ。だってお前、全く悲しそうな顔しなかったからな。それどころか、どこかほっとしたような顔だった。頭じゃ色々分かってても、やっぱり風追いの二人だけに押し付けるには重責過ぎる」
ルルドははっと顔を上げアルドを見る。
一族の人間として、風追いとして、羊の大切さは今更誰に言われなくとも嫌と言う程知っている。
ほっとなどしていない。
そう叫ぼうと口を開けたが、ルルドは本当にそうだと言い切れるのだろうかと、言葉を飲み込んでしまった。
自分では分からないそんな感情が、顔に出てしまったのだろうか。
ルルドも、少なからず風追いの重責は感じていた。
一族の代表として羊を任される名誉はある。そしてヘラルドの期待もある。
名誉な事だけあり、風追いはそう簡単な仕事では無い。
風を読み羊を先導し、全ての羊の腹を満たし数を増やす。雨風にさらわれた羊を追い掛け、野犬が出れば追い返しながら羊が散り散りにならないようにしなければならない。
全て二人で。
それまで心に仕舞い込んでいた色々な不満がむくむくと胸の内で膨らみ、気を抜けば口から飛び出していきそうになる。
ルルドは落ち着かせるように何度か深呼吸を繰り返し、顔を上げる。
そして見上げたアルドの朗らかな笑みを見た時、少しばかりの怒りと、全てを託してみようという気が同時に胸に浮き上がった。
「……その言いぐさ、死にに行くみたいだからどうかと思うよ。父さんが戻る前に帰って来ないと誰も言い訳できない。格好つけてる所悪いけど、確かに馬なら雲海の市までそんなに時間はかからない。だけど、兄さんは自分一人で荷物を抱えて豚を連れて来れると本気で思ってるのか? 群れる羊でさえ統率するのは至難の業なのに? 例え繋いでも、風に乗り慣れない兄さんが曳いて来れると思えないけどな」
時代に合わせ、前だけを見て進もうとするアルドは酷く眩しく、同時に危なげに見えた。
ルルドは羊毛をたっぷりと織り込んだ腰布を外すと、アルドの胸に押し付けた。
「誰が何と言おうと、俺も行く。買い付けは口が巧い兄さんに任せるから、俺の事は荷物持ちとでも思ってくれ」
普段、意見は言うものの結果的には人に流されて来たルルドが、初めて自分の意見を押し通した事に、アルドは腰布を握ったまま唖然と目を見張る。
断固として引かない姿勢を見せるルルドと、珍しく押し負けたアルドの姿に、婆様は年甲斐も無く盛大に笑い声を上げた。
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