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路地を抜けた先、家畜の取引場となっている広場は、まさに圧巻だった。
辺り一面多種多様な家畜が勢揃いしており、それまで考え事をしていたアルドでさえ、小さく声をもらす程だった。
取引場と言っても建物も何も無いただの広場。
そこに家畜の種類毎、寄り集まって居るだけな為、吹き抜ける風は路地や大通りより容赦ない。
家畜を売りに来た人の中には、風に耐えきれず商品であるはずの家畜の背に乗っている者もちらほら見える。
「どうしようか兄さん。どこから見る?」
やはり多いのは牛や馬、アルパカやリャマ、羊などといった所だが、奥の方へと目を凝らせば魚を扱っている所もあるらしい。
市には何度か来た事のある二人だが、これ程多くの家畜が一堂にかいしているのは見た事無い。
ルルドが周囲を見渡していると、いつの間にかアルドはふらりと何かに吸い寄せられて行くように、一人でルルドの前を飛んでいた。
慌てて後ろからアルドの腰布を掴むと、ほぼ同時に一際強い風が吹き、取引場からは小さな悲鳴が幾つか聞こえ、店先に並んでいたいくつかの商品が甲高い音を立て飛んでいく。
「にーいーさーんー」
「わ、悪い悪い! 無意識だった!」
さすがに反省したらしく、アルドは何度も謝ると、気まずそうにルルドの腕を引く。
ルルドに触れてさえいれば、例え強風が吹こうが上手く風に乗る事が出来るので、こうしてアルドが先導しても問題は無い。
むしろその方がルルドも風を読む事に集中出来るので有り難かった。
アルドは一先ず一番近場の羊の群れを覗く。
やはり見慣れているからか、どことなく見ていて安心する。
しかし、すぐに二人とも異変に気付いた。
売りに出されている羊は皆、あまり毛艶が良くないように見えたからだ。
たまたま目の前の個体だけだろうと見渡して見るも、何体かは目を引く個体は居たものの、やはり大半はぱっとしないものばかりだった。
「この羊はどこのだい?」
アルドは近くで羊にしがみついていた少年に尋ねてみた。
少年は羊にしがみついたまま顔だけを上げると、ほんのそよ風が頬に当たっただけでまた顔を伏せてしまった。
「ほら、俺は風追いだから、怖いなら掴まれ。絶対離さないから」
ルルドはアルドの手を自分の腰布に誘導すると、少年に両手を差し出す。
風追いと言う言葉に顔を跳ね上げた少年は、ルルドの広げた両手の中へ滑り込んで来た。
思い掛けず抱き付いて来た少年を抱えたまま、ルルドはどうしたものかとアルドに目配せをする。
ルルドから離れ手頃な羊の背に腰掛けたアルドも、さすがに肩を竦ませるだけだった。
「ここからあの辺りまではすぐ東の雲海の羊で、その奥の黒毛が混じってるのが南の方。その隣が西の雲海。お兄さん達はどこから来たの?」
「俺達は北の雲海からだよ」
すっかり安心したのか、少年は顔を上げる余裕が出て来たらしい。
少年の説明を受けながら、二人は羊の様子と地域を頭に入れていく。
南東に行くに従い羊の毛艶が悪くなり、西の雲海と説明された羊が一番良いものだった。
先程酔い潰れたヤク飼いの男も、東の雲海と言っていた。
どうやら東だけで無く南でも、家畜に被害が出るほど寒くなってきているらしい。
婆様が言っていた通り、各地少しずつ状況が変わってきているようだ。
「君はこの市で働いているんだよな? やけに今日は家畜が多い気がするけど、最近はこんなもんなのか?」
「うん。ここ最近は多いよ。大通りよりこっちのが騒がしいくらい」
言われてみれば家畜もしかり、人も多い。
ふぅんとルルドが気のない返事をしつつ、何の気なしに羊の上を飛ぶと、腕の中の少年が変な声を上げた。
まだ飛ぶのは怖かったのか、それともあまり持ち場を離れては怒られるのか。
ルルドは急ぎ元の場所に戻ると、羊に座るアルドの腕に少年を押し付けてしまった。
「お前、さっき絶対離さないとか言ってなかったか?」
「いや、言ったけどさ、怖がらせたみたいで」
口ごもりながら言い訳しつつ、ルルドは適当な羊の毛を梳くと、簡単な三つ編みし、少年の腕にまいてやる。
気休め程度だが、これだけでも随分と風に乗りやすくなる。
先程まで気にしていなかったが、少年は羊毛の類いを一切身につけて居なかった。
風に乗るのが苦手な者が、羊毛もつけず一人で羊の番をしていたとなると、それは大層恐ろしかっただろうと、ルルドは眉を下げる。
「初めて魚みたいに飛んだからびっくりした! 俺、足が悪くて風の強い日は歩けないんだ。だから、ありがとう兄ちゃん!」
先程まで怯えていた少年は、嬉しそうに羊に跨がったまま両手を振る。
まだまだ聞きたい事はあったが、二人はそのまま少年に別れを告げ、更に奥へと進んで行った。
「ダッドが連れて行った羊は売りに出されてないみたいだな」
「ああ。もしやと思ったけど、いくら何でもこんなに近くではな」
ヤクの上を飛びながら、二人はもう一度振り返り羊を確認する。
弱っていたとは言え、ダッド連れて行った羊達は今日売りに出されているものより頭一つ分抜きんでて質が良い。
元々様々な遊牧を行う天上遊牧民の中でも、長期遊牧に出るゼブ族の羊は質が良いと噂になるほどだった。
その事を考えると、いくら羊が欲しくとも、下手に質の悪い羊を買って帰る気にもなれない。
そして、厄介な問題ばかり起こすダッドとヘラルドへの不満が沸々とわき起こってくる。
「お、見ろルルド。珍しい。水牛だぞ。貯水雲海で飼えないかな?」
ため息をつき頭を振るルルドの後ろで、アルドが楽しそうに前方を指差す。
顔を上げると、ほんの一画に確かに数頭水牛が売りに出されていた。
「いくらなんでも貯水雲海じゃ寒すぎるんじゃ無いか? あいつらの乳は濃くて加工向きだけど……。あ、兄さん鮭がいる」
「ばっか。鮭なんか羊より長い距離遊牧して育てるんだろ。ダッドも居ない今、お前だけで出来るのかよ」
次から次へと目に飛び込んで来る情報に、二人は子どものようにはしゃぎながら奥へ奥へと進んで行く。
しばらくすると、見知った家畜が集まる場所は抜け、この辺りでは物珍しい家畜が集まる場所に入った。
先程言っていた水牛や鮭の他に、養蚕用の蚕とその餌、それと養蜂箱と蜂など、二人が思いつきもしなかった家畜が顔を揃える。
その一画に、二人の目的であった豚の姿もあった。
「おお、思ったより大きい豚だな」
近くに降りてみれば、どれも立派な成体ばかり。
子豚が一頭居れば良いと思っていた二人は、その数と大きさに圧倒された。
そんな二人の様子に気付いたのか、遠くから豚の仲買人と思われる男が、杖にしがみつきながらふらふらと二人の元へ飛んで来た。
「豚はこの辺りでも育つかな? 餌は風以外にも何か要るのかい?」
ルルドが男の手を取り先導すると、近場の豚を指差しながらアルドが矢継ぎ早に質問をする。
手近な豚の背に腰掛けた男は、不思議そうに顔を上げると、ざんばらに伸びた顎髭をひと撫でし、空を見上げ唸り声を上げる。
「この辺で? いや、どうだろうな。親豚はこれ位寒くても何とも無いが、子豚は暖かくしないと駄目になっちまう。餌は何でも良い。風の他に穀物油粕に魚類残飯、果実に野菜。何でも食うわな。まぁ、高値の肉として育てるならそれなりの餌を食わさんといかんが」
男は答えると言うよりも、ぶつぶつと自分の考えをまとめるように独り言ちる。
風が穏やかな雲海の市の暖かさでも、子豚は厳しいらしい。
となると、ここよりも更に風が厳しく冷え込む集落では、何らかの対策を練らない限り繁殖は難しい。
今ある羊用の囲いは親豚用にするにしても、新たに子豚用の囲いを準備する必要がある。
いや、羊用の囲いも豚には狭いかも知れない。放牧に行かない豚でも、十分に運動出来る程の広さを確保しなければならない。
婆様の言葉に二つ返事で飛び出して来たは良いものの、やはりそう簡単な事では無いらしい。
二人は当初の目的だった豚を前に、どうするかとお互いの顔を確認し合う。
このまま予定通り豚を買って帰り、囲いを広げ時間をかけ試行錯誤しながら繁殖させるか、もう少し羊に似た環境で育てられるものを探すか。
状況的に遊牧と狩猟は現実的では無い。
集落環境で、集落の皆で育てられる家畜はどれが良いだろう。
仲買人を前に、二人は黙り込んでしまった。
「その服装を見た所、兄さん達は羊飼いだろ? 羊は大変だが実入りは良いからなぁ。今更豚を飼うか悩むのも無理は無いわなぁ。不安なら、試しに子豚を買っていくか? 子豚が育つか分からない状況で、いきなり親豚を買って繁殖させるのは博打だろ? 上手く育てば儲けもんだ」
仲買人の男は一人で変な解釈をしつつ、豚の群れの奥を指差し悩む二人に提案をする。
群れの奥では、簡易的な囲いに包まれた子豚が顔を出していた。
簡易だからか、囲いの中でもやはり子豚には寒いらしく身を寄せ合い鳴き声を上げ、親と思われる数頭が囲いの周りを不安そうに歩き回る。
子豚の一匹をひょいと持ち上げたアルドは、しばらく子豚を眺めた後、諦めたようにため息をつく。
「そうだな。じゃあ、試しに雄雌一匹ずつ貰って行こうか。子豚の一匹や二匹位なら、最悪天幕の中でも飼えるだろう」
「それは囲いが上手く行かなかったら、成体になるまで一緒に寝起きするって事か。家畜と枕を共にする。はは、父さんが聞いたら怒り狂うな」
アルドから子豚を受け取ったルルドは、そんなヘラルドの様子を想像したのか笑いが止まらない。
ヘラルド所か、飼育方法が確立するまで、集落の皆を巻き込むわけにもいかなくなった。
アルドは仲買人の男に礼を言い代金を払う。
気前の良い仲買人だったらしく、おまけとして子豚用のどんぐりを袋にいっぱい詰めてくれた。
子豚を持参した布で包み、暴れないようにそっと顔だけを出し袋に入れてやる。
すると、意外にも気持ちが良かったのか、二匹の子豚はうとうとと何度か瞬きをすると、そのままぐっすりと眠ってしまった。
「はは。一先ず羊毛は気に入ったみたいだな。子豚一匹ずつに羊毛で作った服でも着せておけば、意外に寒さも大丈夫なんじゃ無いか?」
「うはは! 子豚に羊毛の服! 俺達よりも上等な着物だな。せめて麻とか藁とかだったら出来ない事も無いけど、子豚の服を作るので破産する」
羊は実入りは良い。
仲買人の男が言っていた通り、風追いが少なくなった今、羊毛は貴重で高価な物。
それも、ルルド達ゼブ族の集落の羊は品質が高く、織物の腕も噂に名高い。
ヘラルドが異様に伝統だの風追いだのに拘るのは、その辺の事情も関係している。
いくら子豚が羊毛を気に入ったからとて、ルルド達でさえ、そう易々使える代物では無い。
それ以前に、集落に残ったのは婆様に預けて来た子羊のみ。全く現実的な話では無い。
穏やかな寝息をたてる子豚をひと撫でしたアルドは、袋を肩から斜めにかけ、しっかりと抱える。
「折角だから、もう少し見て回ろうか。兄さんの金だし」
「お手柔らかに。せめてきびを買う金だけは残してくれよ?」
アルドの腕を引くルルドの笑みからは、お手柔らかにする気など全く感じられない。
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