1

10/23
前へ
/115ページ
次へ
男は静かに答えた。 「いえ、遊学中ではありませんが」 「さようでございますか」 普通に相槌を打とうとして、やっぱり冷たい声が出た。 それならわたくしの噂を知らないはずがない。からかわれているとしか思えなかった。 「あなたのお名前を教えてくださいませんか」 「……アンジェリカと申します」 ありふれている名前でよかった。 家名は名乗らない。幽閉、軟禁は多くの場合、家名に傷をつけないための、いわば体のいい勘当をさす。名乗る気になれなかった。 ひとまず礼儀として聞き返す。 「あなたさまのお名前をうかがってもよろしいですか」 「……ルーカス。オーウェン・ルーカスと申します」 男は少し迷って、ちいさく口にした。思わず目を細める。 自分の名前なのに、まるで言い慣れていないもたついた口調。 お名前はと聞いたら、お名前はと聞き返すのが普通なのに、聞かれるとは思いもよらなかったというような、虚を突かれた表情。 普段相手が名乗ることがあっても自分は名乗らない、名前を聞かれないということは、よほど身分が高いか、よほど有名かのどちらかしかない。 ……不器用なひと。おそらく偽名だった。 「親しいひとはみな、ルークと呼びます」 なるほど、愛称から考えたのね。さようでございますか、とまた気のない相槌を打ったわたくしに、少し苦笑して。 「ルークと呼んでくださいと、言ったつもりだったのですが」 ——呼んではくださらないのですか。 拗ねたような甘い顔つきに、頬がひくりとこわばった。 この方は、ほんとうに、ほんっとうに世慣れていらっしゃるらしいわ……!!
/115ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加