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翌日、『夜に家に来てほしい』と知哉さんからメールがあった。仕事から帰ったら連絡するからと。
北嶋と会った昨日の夜から、一件返事をしただけで、あとはずっと知哉さんのメールに返信できていない。仕事の休憩中なのか、一度だけ着信もあったけれど出られなかった。
家へ行くという件だけは、『大丈夫です、行きます』と返事を送った。
夜の六時半頃に連絡がきて、知哉さんの家へ向かった。これから知哉さんに別れ話をする。適当な態度を取るなと、北嶋に言われた。だから、「好きな人がいる」と言おうと思っている。傷つけてしまうのなら、せめてそこだけは嘘をつかないことにした。好きな人の名前は、何があっても言わない。
高校生の頃、北嶋の幸せを願っていたのと同じように、今は北嶋と知哉さんの未来が平穏なものになるよう、それだけを望む。
マンションの部屋のインターホンを押すと、いつも通り、笑顔の知哉さんが出迎えてくれる。温かくて優しくて、大好きだった。顔を見てしまうと、そんな想いで胸がいっぱいになる。
リビングに入ると、びっくりして一瞬動けなくなった。そこには北嶋がいたのだ。北嶋も驚いたような顔でこっちを見ている。
「廉も呼んだんだ。ちょうど同じくらいの時間に仕事が終わってよかった」
知哉さんはキッチンで三人分のコーヒーを淹れている。どうしたらいいのかわからず、とりあえず北嶋からは離れたところに座った。
コーヒーを持って知哉さんも座る。そして、普段と変わらない調子で話し始めた。
「飛鳥、昨日、なんか様子がおかしかったでしょ。何かあった?」
「あ、……えっと」
「今日は別れ話をしにきた?」
「えっ」
それまで黙っていた北嶋が、「あの、俺、いないほうが……」と口をはさむ。
知哉さんは北嶋を見る。
「廉も関係あるんじゃないの?」
一気にその場の空気が凍り、部屋は静寂に包まれる。
「違ってたらごめん。ふたり、昨日、何かあった?」
昨日のことは言えない。一生の秘密だから。
予定していた通りの別れ話をして、早くここから帰ったほうがいい。そう思って、だいぶ焦っていた。
「知哉さん、ごめんなさい。……別れたい」
「そう」
「その、……好きな人がいて。好きだった人が忘れられなくて」
「廉のこと?」
どうして……? 知哉さんは、どうして知っているんだ?
「そうなんでしょ? 廉も、飛鳥が好き?」
北嶋は黙っている。どこか一点を見つめて動かない。
「あの、知哉さん。俺、これから北嶋とどうこうなるとか、どうにかなりたいとかないから……。本当にそんなこと思ってない」
「どうして?」
「どうしてって……」
「俺に遠慮されたら嫌だよ」
知哉さんは寂しそうな顔をする。
すると、ずっと黙っていた北嶋が口を開いた。
「兄貴、ごめん。俺、峰のことが好きだ。高二の時から……。でも俺、兄貴には本当、感謝してて、だから、兄貴の好きな人が好きだなんて、そんなの許されない。俺、兄貴が一番大切な家族なんだ」
「あの、……俺がふたりの前からいなくなります。それで全部うまくいくから」
「飛鳥。どうしてそんなこと言うの?」
「だって、北嶋もいいやつだし、知哉さんは本当に本当に優しい人で、俺なんかよりもっと素敵な恋人を早く見つけてほしい」
「優しくなんかないんだよ」
知哉さんは小さくそう言った。
「飛鳥は、本当の俺を知らないんだ」
コーヒーが冷めちゃうから飲もうと知哉さんが言って、しばらく誰も口を開かず時間だけが過ぎていった。
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