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家を出る間際まであれこれ話しかけてくる母親と妹、静かに笑っている父親。ここに知哉さんを連れてこよう。改めてもう一度そう思う。
日曜の夕方、実家を後にした。
駅へ向かう道へと行きかけて、ふと気付いた。今日は八月二十五日。思わず足が止まる。
クラスメイトとの花火。待ち合わせは何時だったっけ。夕方の七時だったかな。五年前の今日のことだ。
思い出を、想いを、全て置いていくつもりで反対方向へ歩き出した。
海岸入り口。時刻はもうすぐ六時半になるところ。夕陽は海の向こうへ沈もうとしている。
――きれいだな。
見飽きたはずの海なのに心が奪われ、何とも言えない色をしていると思った。消えていく青、呑み込まれるような赤、迫ってくる黒、そして光。北嶋だったら、この景色を絵にすることができるのだろうか。
太陽が沈むのを静かに見ていた。
やがて訪れた暗闇の中、ぽつんと座り込んでいると、ざくっと砂を踏む音がしてハッと振り向く。
「……」
そこには北嶋がいた。驚いたような顔をしてこちらを見ている。
「峰……」
高校生の頃と同じように呼ばれた。
「北嶋、……どうして」
「峰こそ、どうして」
「だって俺は……」
実家からの帰りに寄っただけ。でも北嶋は違う。東京からわざわざやって来たのだ。
八月二十五日の午後七時。偶然なんてあり得ない。きっと北嶋は覚えていないと嘘をついていたのだ。
北嶋は同じ目線にしゃがみ込みながら腕をつかんできた。ぐいっと引き寄せられて唇が……、触れる寸前、目を閉じた。
少し待っても唇は触れなかった。目を開けると、つかまれていた腕をぽんと押されて突き放された。
「……なんで拒まないんだよ」
「……」
「拒めよ! 兄貴の恋人なんだろ!」
隣に腰を下ろした北嶋はそれきり黙ってしまって、しばらくふたりで、夜の海を見ていた。
「……ぁ」
手を握られた。
海を見たまま北嶋は小さく言う。
「……峰が、……好きだった」
つながれた手は、ぎゅーっと強く握られる。
「……俺も、……北嶋が好きだった」
「知ってた」
「え?」
驚いて北嶋を見ると、初めて笑顔を見せた。
「知って、た? ……なんで」
そんなに態度に出ていたのだろうか。高校二年生の想い。抑えても抑えても溢れ出てしまう気持ち。悟られるほどに表に出ていたのか。
「俺が描いた絵を、携帯の待ち受けにしてた」
「えっ」
「休み時間に、嬉しそうにそれを見てた」
「……」
「たまたま峰の席の後ろを通った時に見えたんだ」
「ああ、……そう」
「なんで好きって言ってくれなかったんだよ」
「そんなの、そっちだって」
「俺は言ったじゃん」
「え?」
「花火の日、ばっくれようとしたけど戻ることにした時」
「あ、……ああ」
――峰の、そういうところが好き。
「返事くれないから」
「だってあれは、そういう意味じゃないと思ったから」
「ま、携帯の待ち受けでほぼ確信してたからキスしたんだけどね」
あのキスを最後に、北嶋はいなくなった。悲しい青春の一ページがよみがえる。
「なんで」
「ん?」
「なんで、俺のこと……」
「なんで峰が好きなのかって?」
つないでいないほうの手で小石か貝殻を拾って、北嶋はそれを軽くぽんと投げる。
「俺、中学と高校、何回も転校したじゃん。明るくしてればすぐに友達はできるってわかって、それから、友達だと思ってても陰では何言ってるかわかんないんだなってことも知った」
波の音と北嶋の寂しさが共鳴する。
「なんとなく家庭の事情を探っては言いふらされたり」
視線を感じて北嶋を見ると、こちらを見ていて目が合った。
「転校する度、色々とわかってきた。表面上は仲良くしてるけどうちの事情を知りたくて噂したいやつ、それか俺に全く無関心のやつ。そのどちらかしかいないんだなーって。でも、峰は違った。俺に興味あるのに、何も聞いてこない。峰だけは、そっと何も聞かないでいてくれた」
そんな、特別に北嶋に何かしてあげたりできなかったのに。
「何も聞かないでいてくれる優しさってあるんだなって。高二の俺の胸に刺さっちゃったわけ」
ふふっと笑いながら、「峰は、どうして?」と聞かれる。
「えっ。……ごめん、わかんない。ただ、とにかくドキドキしたんだ」
無言でこっちを見るから、「ごめん」と謝る。
「嬉しいよ。むしろ」
「もしかしたら北嶋、毎年ここに?」
「高三の時とその次の年は来られなかったけど。来るようになって三年目でやっと会えた」
スマホの音を切るのを忘れていて、メール音が鳴った。
つないでいないほうの手で取り出して見ると母親からだった。別に急ぎの用ではない。
「いいの?」
「親から。後で返事する」
待ち受け画面に戻った時、横からのぞいていた北嶋が息を呑むのがわかった。
途端に北嶋は手をふりほどいた。
「北嶋……」
「峰、未だにそれ……、兄貴のこと大切にしてねーのかよ!」
北嶋は、くしゃくしゃと自分の髪の毛を荒く触った。
「……ごめん、大きな声出して。俺から手つないでおいて、好きだったとか言って、そのくせ怒って、訳わかんねーだろ」
夜の海に呑み込まれてしまいそうなふたり。
「訳わかんないんだよ。ずっと会いたくてここに来てたのに、やっと会えた時は兄貴の恋人だった。前にも言ったけど、兄貴は本当に優しくて、兄貴がいなかったら俺と母親はどうなってたか。感謝してもしきれない。もしかしたら、……血が繋がっていないかもしれないのに」
「えっ?」
「親父が、俺と母親に暴力ふるってたって言っただろ。俺がまだ小さかった頃は、そんなことなかったんだ。いつからだったかな、俺は親父の子じゃないって、親父が言い出したんだ」
そういえば北嶋は知哉さんに、「半分は、血繋がってんだよね?」と確認していた。
北嶋の話は続く。
「本当はどうなのか、今もわかってない。母親にはこのことについて一度も聞いてみたことないから。でもさ、今は民間の親子鑑定って思ったよりも安くできるのに、してないってことはさ……。あんなに長い間、暴力を受けなきゃならないんなら、鑑定結果を見せればいいだけじゃん。どうして鑑定しないんだろうって。そこに答えがあるってどうしても思っちゃうから、考えないようにしてる」
北嶋は優しい顔でこちらを見て言った。
「俺さ、兄貴と血が繋がっててほしいんだ。あんなに優しい兄貴が他人だなんて嫌だ」
心臓がぎゅっとなった。北嶋が知哉さんの弟だと知った時、兄弟なんかじゃなければよかったのにと思ってしまった。自分はなんて愚かなんだろうと、この心優しい兄弟を見て、一体誰に懺悔すれば許されるかと考える。
「兄貴には幸せになってほしい。兄貴が峰を本気で好きなら、俺は峰を覚えていないふりをしようって思った。なのに、バカだな、俺。八月二十五日、ここで峰に会えたことで気持ちが抑えられなくなった。……五年前の今日、ここでキスした」
北嶋は暗い海を真っ直ぐに見て、「でも」と言った。
「あの夏には帰れない」
どれくらい沈黙が続いただろう。
「それでもやっぱり峰が好きだ」
北嶋はそう言った。
「ふたりでやった線香花火、覚えてる? 一生、ふたりだけの秘密って」
「うん」
「神様か誰かわからないけど罰を受けるかもしれない。でも……、一生の秘密で、……キスしたい」
北嶋はゆっくりと近付いてきて、ふたりの唇は重なった。
一度触れたら止まらなくなった。
何度も何度も触れ合う唇。息継ぎの合間に北嶋が言った。
「ホテル、行こうか」
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