第9話 ウサギ未満

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第9話 ウサギ未満

 肉の焼ける香ばしい匂いと空のボールハウス。そこにシュバルツの姿がないということと、うまそうな匂いに唾が出てくる卑しい空腹と、傷口から血が噴き出すほどの怒りに取り憑かれて、自分の体の具合を確かめることもなく飛び起き、ドーマを蹴り飛ばしていた。  いま居る場所は半壊した建物の入口付近で、ガラガラと瓦礫に埋もれたドーマは、  ……ぷうっ、なにすんだ。 とほざいていたが、それはこっちの台詞だ。よくもシュバルツを。  もう一撃と踏み込んだ時、やめるのだ! とミフユが動線に入ってきた。止まりきれずに少女をはじき飛ばしてしまう。  それほど強くはなかったけれど。  すると、瓦礫に埋もれていたはずのドーマの姿が消え、不意に目の前に現れたかと思うと、下腹部に重い打撃をくらっていた。  両足が地面を離れ、ドーマの片腕でそのままくの字に持ち上げられていた。低い声で、ミフユになにすんだコラと囁くように言って、そのまま放り捨てられた。  元々のケガのためか殴られたためか、口中に血が溢れ、錆びた鉄の味が広がる。地べたに転がったあたしに見えるのは、散乱した先人たちの遺産たる瓦礫、用途もわからない輪っかのついた台車のようなものばかりだった。それらを足蹴にしながらドーマの太い足が近付いてくる。容赦なく背中を踏みつけられ、もう一度、口中から血が溢れ出した。  背中の足を払いのける力はもうない。  頭の中のドアを開いても、アリアに苦痛を分け与えるだけで非力さは変わりないだろう。トーキョーに生き残っている連中は危険だと聞いていたのに、まったくもって浅はかだった。  ぎしぎしと重みが増し、背骨が軋む。  あたしは目でシュバルツの姿を探した。しかし、倒れた場所から焚き火は見えず、捉えたのは香ばしい匂いだけだった。死ぬかもしれない時にも腹は減る。それが愛しいものの焼ける匂いであっても。これが古い聖典にいう罪なのか。空の空、いっさいは空である。  目の端にボールハウスが見え、背中を踏まれたまま、そちらへ手を伸ばした。シュバルツ、悪かったな。せめて、あたしが食ってやれば良かった。  胸が圧迫され、もう息が続かないと思った時、ふっと踏みつける力が緩んだ。自由に動けるほどではないが、ほっと息をつけるほどに。げふげふと咳き込んでいると、  ……おい、まさかと思うが。おまえ、ウサギのことで怒っているのか。 と不思議そうに聞いてきた。そうだと答える代わりに、べっと血と唾を吐き出して下から睨みつけてやった。  ……わからねぇな。ウサギと自分とどっちが大事なんだ?  ……はっ、いい質問だ。ウサギに決まっているだろう。アリアがくれたんだ。あの子のプレゼント以上に大事なものなんかこの世にない。あたしもあの子も、ウサギ未満の価値しかない。それが事実なんだ。  ……なら、そんなやつを殺しても仕方ねぇな。さすがに食いたくねぇし。  にへらと笑って、背中から足をどけるとその場にしゃがみ込んで手を差し出してきた。どう応じたものか戸惑っていると、  ……焼いてたのはウサギじゃない。培養肉さ。バカなやつだ。でもまあ悪いやつじゃないね。おもくそぶん殴って悪かったな。 と引き起こしてくれた。ドーマはあごを撫でながら、愉快そうに、  ……ウサギ好きに悪い奴はいない。久しぶりに見たぜ。本当に久しぶりに。まだ絶滅していなかったんだな。  ……はっ、とっくの昔に絶滅したさ。  ……ふぅん、まあいいや。それで? 自分の命より大事なウサギ様と、どこへ行くつもりだったんだ?  ……どこへだって? 知るか、そんなもの。  ぷいと横を向いて応じてやると、ドーマは一瞬きょとんとして、次には楽しそうに声を立てて笑った。それで危ないことが終わったのを知ったのか、瓦礫の陰から、シュバルツを抱いてミフユが姿を見せた。  抱っこが嫌いなウサギも多いが、シュバルツは違う。特にそれが可愛い女の子であれば。あいつは生来の女たらしなんだ。
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