第1話 妖精女王

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第1話 妖精女王

 日によってはまだ肌寒い初夏の候。  店の軒先にぶらさがった気の早い風鈴を見て夏を思う。頭蓋骨の底から引きずり出されてくるのは、川を渡る風、毒々しい色合いのカキ氷、生冷えの西瓜(スイカ)柄杓(ひしゃく)で流す便所、井戸水の冷たさ、土間を吹き渡る風、冷たい親戚、無数の人形、山と川と海と淡い恋心。  子供の頃、夏は特別な季節だった。  だってあの頃は……  記憶を呼び覚ます苦しさに耐えて息を潜めるようにしていたところへ、シュウくん、シュウくん、とマスターのしわがれた声で名前を呼ばれた。 「どうしたんだい、ぼうっとして?」 「すいません。ちょっと……」  開いたドアの向こう、からからと揺れる風鈴を見やって応じる。雑貨屋『妖精女王』のマスターはもう良い歳のお爺さんだが、まだまだ元気でしっかりしている。 「ああ、風鈴。まだ早過ぎるかね」 「いえ、いいと思います。すぐに暑くなってきますよ」 「そう? なにか気になったかな?」 「ちょっと昔のことを思い出しただけです」 「音は記憶を呼び覚ますからね。わしぐらいの歳になると、すべてが良い思い出だよ。その頃には辛かったことや苦しかったことも」 「そうですか」  頭をかきながら応じるしかなかった。「僕は、昔のことを思い出すのは嫌いです。失敗と後悔と赤っ恥の黒歴史なんで」  ふふっと笑われ、少し気分を害したのが表に出たのだろう。マスターは穏やかに言葉を継いで(なだ)めるように言った。 「それは君がまだ若く、昔と繋がっているからさ。記憶にある人たちもまだ生きてともにあるからこそ腹も立ち、悲しくもなり、頰を染めることにもなる。うらやましいことだね」  そこまで言って、そもそもの用事を思い出したらしい。マスターは一枚の古いCDを取り出して嬉しそうに見せてくれた。 「モーツァルトの魔笛(まてき)だ。それこそまだ若い頃に聞いた古い音源のものでね。リタ・シュトライヒの歌声が大好きだった。夜の女王のアリア、聞いたことはあるかね」 「まあ、聞いたことはあります。名前だけは、という意味で……」 「いかんねぇ、シュウくんは絵を描くんだろう? なら、音楽や小説も(たしな)まなきゃ」  はぁ、と気のない返事をするも、マスターはまるで僕に音楽を聞かせるのが自分の使命だと思い込んでいるかのように嬉々としてCDをかけてくれるのだった。  およそ人の喉から出るとは思えない不思議な歌声が響く中、初夏の爽やかな風が店内に吹き込み、同時に誰かが入ってきた気配があった。  顔を上げると、目の前に若い女性が立っていた。吹き去った風に、白いワンピースと緑色の髪が柔らかく揺れていた。
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