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すでに見えている目的地がなかなか近づかないが、樹の心は晴れやかだった。
営業課に所属している樹は後輩と午前中から担当しているスーパーマーケットへ足を運び、自社商品の売れ行きの報告や商品の発注、陳列の場所を確認してきた。今日分の仕事は終わったので先ほどの地下鉄で後輩と別れて今から家に直帰できるのだから嬉しいことこの上ない。
汗の玉が浮かんでいる腕に着けている時計を見れば十四時半を差している。一度帰宅して外気の暑さが引いてきたら居酒屋にでも行こうか。
そんなことを考えながら歩いていた樹の耳に、ふと涼風の音色が聞こえてきた。その溶けていくような音に気づき、足を止めて首を巡らせると、樹の歩いている大通りから一本外れた小道にその音色の主がいた。
暑さの限界だったからか、音色に誘われるように大通りを左に曲がって小道を進んでいく。少し歩いたらすぐにその主はいた。『すだれ屋』と書かれた暖簾の隣にぶら下がっている風鈴は風が吹くたびにチリンチリンと軽やかな音色を奏でている。この音を聞くだけで体に溜まった熱がすっと引いていく気がする。
樹は少し離れて店の外観を眺めた。ずいぶん古い町家だった。窓にかかった大きなすだれが独特の風情を生み出しており、店先には赤もうせんの長椅子と隣にある手水鉢の中にはサイダーなどの瓶ジュースが水で冷やされていた。
先ほどの通りは車やバスがエンジンをふかして走っている最中、この店だけタイムスリップをしたかのような雰囲気を感じさせる。きっと母や祖母の世代の人が見たらより懐かしく感じることだろう。
そんな風情漂う店の軒下にぶら下がっている『氷』と書かれた旗に樹は思わず惹かれた。よく見れば小さな黒板にも『かき氷、始まりました』とまるで流水のようなきれいな字で書かれている。
樹は乾いた喉を一つ鳴らす。かき氷なんて食べるのはいつぶりだろう、なんだか少年に戻った気持ちになっていた。
「せっかくだし入ってみよう」
決心した樹は意気揚々と暖簾をくぐり右足から敷居を跨いだ。
店内に入った樹は思わず感嘆の息を洩らす。
きっと二階建てなのだろうが、入ってすぐ上の二階部分の床を取り払っているから吹き抜けのような開放感がある。そのことによって奥の和室と区切っている一枚板の太い柱が目立っていた。外を見れば先ほど見たすだれから細くて柔らかい日差しが漏れてきており、直射日光のとげとげしさはまるで感じられない。
外観も確かに雰囲気漂う空間だったが、内装はさらに趣を感じられた。
樹は土間の壁一面にある棚や畳に置かれているざるを眺めていく。ざるの一つ一つの中には金平糖やおかきが並べられていた。ついかき氷に目が行ってしまっていたが、元々は和菓子屋さんのようだ。
木の香りに包まれながらお菓子を眺めていると、和室の奥の襖が開く音がした。反応してそちらを見ればひとりの女性が何やら大きな段ボールを抱えて入ってきているところだ。
「よっこいしょっと」
すとんと段ボールを下に置いてふうと一息つく女性はまだ樹には気づいていない様子で手の甲で腰を叩いている。
随分華奢な女性だ、というのが樹の女性に対する第一印象だ。ベージュのパンツで分からないが、叩いている腰と前掛けの中に入れているシャツの間は薄く、すらりとした腕が柳のように伸びている。
しばらく腰を叩いた女性は店内に目を向けてやっと樹が視界に入ったのだろう、「ひゃっ」と声を洩らし、小動物のように跳ねた彼女は両手を胸の前で固く握った。
「すみません、驚かせてしまい」
樹は驚く女性の前に行って咄嗟に頭を下げた。誰もいないと思っていた店の中に汗だくのサラリーマンが立っているのだから、女性が驚くのも無理はなかった。
「あ、いえ、あの、私も気づかずにすみません」
彼女はすぐに正座して額を畳にこすりつけるように頭を下げる。すごい慌てようだ。樹はなんだか不安を覚える。ほかに店員が出てくる様子もないし、今日はこの女性が一人でお店を回しているのだろう。見た目で推測すれば彼女は樹よりも年下、おそらく二十代後半とみた。きっとパートで入っており、今日はたまたまほかの店員の都合が悪かったのだ。
「あの、店先でかき氷をやっていると見たものですから、買わせていただこうかと」
未だ顔を伏せている女性の顔を確かめるように少しかがんで話すと、彼女はすっと顔を上げて背筋を伸ばす。その佇まいにも表情にも先ほどまでの緊張は微塵も感じられず、凛としていた。
「ありがとうございます。ようこそすだれ屋へ」
微笑して彼女はもう一度、ゆっくりと頭を下げた。
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