一杯目 青春味

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 何も見えない。  眼球を動かして周りを確かめてもそこは右も左もないただの黒い空間だ。そうだ、自分はかき氷を店先で食べて、そこで急に眩暈がして意識がなくなった。自分の現状を理解した樹の鼻にくすぐったい感覚と不思議なにおいが漂ってきた。耳を澄ますと遠くで誰かの声もする。ゆったりと、一定のリズムで流れてくるその匂いは鼻の奥を震わせるつんとしたものだが、どこか懐かしいものがあった。  その匂いを探るように樹は目を開けると、視界には自分の両手と足が見えた。  ところが、先ほど買ったかき氷は手中にはなく、それにどういうわけか猛烈な眠気に襲われていて、なかなか目が開かない。  試しに手を握る伝達を脳から送れば、それに呼応するようにピクリと右手が拳をつくる。どうやら体は動くようになったらしい。しきりに目を瞬いたのち、ゆっくりと顔を上げて周りを見渡した樹は愕然とした。  並べられた木製の机といす、窓から吹き抜ける風によって波を打つカーテン、前方に見える壁一面の黒板、間違いなくここは教室で樹も生徒として座っている。よく見れば着ている服もスーツから夏の学生服へと変わっている。  周りには先ほどの樹と同じように首が垂れた状態で目を瞑っている生徒や机に突っ伏している生徒、中には大胆に口を開けて寝ている生徒もいる。皆気持ちよさそうだ。  脳内がハテナで埋め尽くされ唖然としているその時、また先ほど嗅いだにおいが漂ってくる。  学校、夏服、この二つが加わっただけで特定不能なにおいが塩素のにおいだと気づく。樹も自分の身体のにおいを嗅げば、若干だが塩素の香りがする。それで樹は自分たちがこの前の時間に体育で水泳をしたことに気づいた。 (いや、そもそもなんで学生してるんだよ)  心の中で呟いた樹は教室内をより観察する。そうすると、見覚えのある顔が周りで寝ている。前の壇上で黒板に書いている先生の顔もなんとなく覚えている。この面々からすると、ここは樹の通っていた高校で確か二年のクラスだ。  未だ整理はつかないが、なぜだか樹は高校二年生のある日を送っている。きっと夢でも見ているのだろうとその仮説を飲み込んだ時、左側で寝ている後藤勇磨に目が留まった。  勇磨は大きな図体を徐に動かしてひじと頭がぴたりとはまるベストポジションを探している。  樹は十年超ぶりに再会した親友から目を離せないでいた。確認せずとも、心臓が高鳴っているのが分かる。  思いもよらない相手を目の前に困惑していると、教室のスピーカーからチャイムの音が鳴る。それと同時に死体同然のように寝ていた生徒たちが各々気怠そうに起き上がる。  なあ、と腕を枕にしていた勇磨の声にびくりとする。勇磨は体勢を崩さずに目線だけを樹に向けていた。 「板書書いてた?」 「い、いや、書いてない……」  本当は書いていたのかもしれないが、今はノートを確認する余裕はなかった。 「そっか、どうも体育が水泳の時は睡魔の力が強いよな」  石から生まれたような唸り声をあげた勇磨は枕にしていた腕を昆虫の触角のように前へ伸ばしながら体を起こす。  周りのクラスメイトが廊下へ出たり、机をくっつけたりする中、樹たちだけがいまだ動かずに座っていた。 「樹ー、勇磨ー」  突然名前を呼ばれて顔を上げた樹の口から「あ」と声にならない音が漏れていた。もう一人の友人、吉瀬美有(きちせみゆう)が廊下側の窓外から満面の笑みで手を振っている。 「早くご飯食べに行こうよ、食堂の席埋まっちゃう」 「あいつ、本当に食い気は男以上だよな」  美有に聞こえない音量で話す勇磨はのそのそと起き上がり、まだ起きていない眠気眼をこすりながら教室後方のドアへと向かっていく。  樹は急かす美有と丸まった勇磨の背中を交互に見比べる。高校二年の夏、それは唐突に、だけど鮮明に記憶がよみがえった。それは片隅に置いていた記憶、二度と思いださないようにと鍵を何重にもかけていた記憶だった。  この年の夏、樹は二人の友を失った。
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