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分厚く重い扉を押し開けて二階のエントランスに入ると、空調設備が行き届いているのか、中は意外に涼しく感じる。
それも入った時だけで、運動靴を脱ぐのももどかしく上がったホールは、人いきれと熱気に蒸せ、そんな会場の雰囲気に思わず息を呑んだ。
そういえば屋内での試合観戦なんて初めての体験だと、改めて気付く。
マジックペンで大きく『靴は各自で袋に入れ―――』と記された注意書きのボードと、段ボール箱の横に下げてあるナイロン袋が目に入り、妙に納得して袋を一枚切り離すと、脱いだばかりの靴を突っ込んで手に提げた。
これも外での試合観戦では絶対あり得ない。
なんだか新鮮な事ばかりで、瑞希への想いから少しだけ解放され、らしくもなくワクワクしてきた。
これから起こる事も、余裕を持って受け止められそうな、そんな気分。
瑞希の田舎を初めて訪れた時に似ていると思い至り、笑ってしまった。
どっちにしても俺の『初めての体験』には、瑞希の存在が欠かせないと気付いたからだ。
日中の眩しすぎる日差しの中からいきなり薄暗い所に入ったせいで目がよく慣れなくて、取り合えず正面の手摺りに人垣を分けて入り込み、一階を見下ろしてみた。
八面あるコートの内、七面は空いている。
一コートだけで試合が行われていた。
けど、西城の選手はそのどちらでもなさそうだ。
「あの、もう決勝戦ですか?」
隣に立ち、パンフレットを手に観戦中のおじさんにこそっと尋ねると、
「いいや、準々決勝だ」
と簡潔に教えてくれる。「女子の試合が長引いてな、四十分ほど遅れてるかな」
ちらっと腕時計に目をやり、すぐに階下に視線を戻す。
勝敗が決まるまではそれ以上訊くのも悪い気がして、隣に陣取り、その人と一緒に試合の行方を見守った。
少しずつ目が慣れてくると、二階席に座っている同級生を見つけることができた。
同じ剣道部で瑞希と仲のいい本城と、彼の幼馴染の新見、去年俺と同じクラスだった久保が、右手奥の会場に張り出した席の三列目で。
そこから少し間を空けた手前、中間通路のすぐ前で藤木が観戦していた。
もう一人、よく知った顔を捜して辺りを見渡していると、パンッ! と、大きな音が響いた。
音のした方を見ると、試合していた二人がコート中央に引かれた二本の白線にそれぞれ戻っている。
試合の流れが速い。そう感じたのに、
「やれやれ、思いのほか粘られたな」
おじさんが俺の反対隣にいた人に話しかけた。
相手はかなり年下に見える。
おじさんの方が六十才前後、もう一人が父と同じ年くらいだろうか。
二人ともサラリーマンではなさそうだが、身の回りには身分証みたいな物は付けていない。
ただ、この大会関係者か、剣道に携わっている人だというのは何となくわかった。
「そうですねえ、昨日の疲れが残ってますかね?」
「どうかな、団体の決勝もてこずってはいたが……」
胸ポケットに差していたボールペンを抜き取ったおじさんが、パンフレットに何かチェックを入れながら続けた。
「だが、まあ順当なとこだな。どっちにしても次の準決勝が事実上の決勝戦だろう」
ペンを戻し、勝ち上がってきた者の名前を、指先でピシッと弾いて見せた。
―――「藤木 透」。
やっぱりか……と溜息が漏れる。今大会優勝候補だ。
名前だけは中学の時から知っているし(藤木絡みで)、それに藤木自身、自分達が従兄弟だと瑞希に教えてからは、瑞希にも何回か聞かされていた。
この時点―準決勝で藤木さんの名前が出て、瑞希の負けを察し、今の瑞希の居所を聞こうと本城達の元に行きかけた俺は、
「やっぱり出てきましたね、『吉野瑞希』。岸さんのお気に入りだ」
と言う、隣の若い人の台詞に耳を疑った。
「この二人のどっちかになるって初めから予想してましたもんね、岸さん」
年下の者のからかいに気分を害する風もなく、おじさんが「当然だ」と答える。
そんな二人に思わず尋ねていた。
「あの…準決勝の相手って、どうなってるんですか?」
「ん? 今の話か?」
再び声をかけられ、振り向いた年配のおじさんが、
「えっと、待てよ……第二試合場でさっきの常盤高校の兵藤と、桜華学院の松坂で――」
パンフレットを見直して、コートナンバーまで教えてくれる。
「第六試合場が洸陽学園の藤木と西城高校の吉野だ」
それを聞いた途端、心臓の鼓動が激しく脈打ちだした。
自分の試合前より緊張してきた。
「第六…って、どこですか?」
「ああ、あそこになるな」
見下ろして指差した場所は会場の中央寄りで、本城達より藤木の席の方に近く、一番よく見えるコートだった。
「そうですか、ありがとうございます」
礼を言って行きかけると「おい、君」と呼び止められた。
「観戦するなら第六のがいいぞ。面白い試合になるはずだからな」
岸さんと呼ばれた人にアドバイスされ黙って頷くと、もう一人の人が、
「やだなあ岸さん、その子最初から第六の事しか聞かなかったじゃないですか」
そう言って俺に笑いかけ、「知り合いなんでしょ?」
と、親しみを込めて訊いてくる。
「ええ、まあ」
相槌を打つと、おじさん―岸さん―が「ふん」と、どういうわけか鼻を鳴らした。
「藤木の応援ばっかり増えて、かわいそうに……」
その口調に、瑞希への同情みたいなものを感じ、訝しげな表情になったかもしれない。
やれやれと首を振って溜息を吐いたその人が、
「去年もなあ、いい試合したんだよ、この子は」
パンフレットを繰り、今日の戦いぶりを振り返りながら、去年の瑞希を思い出すように話し始めた。
「一年とは思えない堂々とした戦いぶりだったが、準々決勝で自分の高校の三年と当たってな、それでも怯まず先に一本取って、延長までもつれ込んだんだ」
自分の知り合いのように瑞希を褒めるけど、……ほんとに知り合い? じゃないよな。
何と返事していいかわからず……でも、少しも知らなかった去年の瑞希の様子を他人から聞くのは興味深かった。
こんな体験もそうそうできるもんじゃない。
知らない風を装い「そうですか」と言うと、通りすがりでしかない俺が関心を示したせいか、おじさんも構わず話し続けた。
「これまで一度も聞いた事ない名前だったんで、よそから来た子だろうが、ここで試合を重ねてきた子とは知名度がまるで違う」
そう言われ、「あ…」と声が出た。
藤木さんはインハイだけじゃなく去年の国体選手にも選ばれたし、地元でなくてもこの県内で剣道に携わっていれば知ってる人は大勢いるはずだ。
思いがけない指摘に頷くと、「そうだろう」と岸さん(いつの間にか名前まで覚えた!)も、益々熱く語り出した。
「あの子の剣技はもちろんだが、剣道に対する姿勢が他の子とはどこか違う。わしにはわかる。君も一度見たら忘れられんぞ。藤木もいいが吉野君の応援もしてやってくれよ」
目配せして笑いかける、その目尻のしわに人のよさが滲み出ていた。
祖父母がいない俺は、このくらいの年の人にすごく弱い。
別にわざわざ教える必要もないと知りつつ、「心配いりません」と答えていた。
「俺、瑞希の幼馴染ですから。あいつの応援だけにここまで来たんです」
「――幼馴染?」
きょとんとして聞き返す岸さんに、「ええ」と笑いかけた。
「岸さんのような人に話が聞けて、嬉しかったです。瑞希も喜ぶと思います」
そう話す俺の声に重なって、準決勝戦を知らせる放送が会場に流れた。
試合場の様子を見ると、審判員らしき旗を持った大人が数人集まり、何やら話をしている。
「そろそろ始まるみたいですから、友達の所に行ってみます」
それだけ言って頭を下げ、後方へと人垣をすり抜けた。
「あ、ちょっと……君!」
慌てて呼び止める若い人の声が聞こえたけど、今はもう試合の事しか頭になかった。
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