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帰宅
伝えたのは、溢れるほどの感謝の気持ちだった。
外階段への通路で、誰かに名前を呼ばれた気がして視線を移すと、青々とした大木の下で寛ぐ十人ほどの西城の生徒が目に入り、その中のたった一人に視線が吸い寄せられた。
穏やかに微笑み、俺を見つめる優しい眼差しに、胸が急に熱くなった。
会いたかった……
一目でいい、姿を見たかった。
その気持ちがいっぺんに膨れ上がって、ただ嬉しくて、知らず駆け出すと、名前を呼んで思い切り抱きついていた。
何故か上から飛沫が降ってきて、頬に当たって甘く弾けたけど、そんなの少しも気にならなかった。
「―――お…前なあ……」
呆然として、でも回された片腕は、一瞬だったけど俺をしっかりと抱き締めてくれた。
「ったく、ポカリでよかったよ、コーヒーだったら二人揃ってまだら模様だ」
身体を離し、真っ白なシャツに飛び散った水染みを見てぼやく北斗に、ごまふアザラシみたいな姿を想像したのか、皆が一斉に笑い出す。
「ごめん! 中身入ってるなんて思わなかった…っていうか、全然見えてなかった」
一緒になって笑いたいのをこらえ、顔の前で手を合わせてひたすら謝ると、
「ああ、そうだろうな。お前は―――」
文句を言いかけた北斗の方が、耐えきれずに噴き出した。
「ほんと、瑞希には参る。まともに祝福も言わせてくれないんだからな。山崎に先越されたけど、優勝おめでと」
目の前に手を差し出され、戸惑いつつも握り返した。
「あ、ありがと。皆も来てくれてありがとう。びっくりしたけど、凄く嬉しかった」
他の同級生や後輩達にも、視線を巡らせ笑いかけると、
「はあ、なんか……凄いもん見て脱力したっていうか何ていうか……」
関が呆然と、俺と北斗を交互に見比べて呟いた。
「『凄いもん』…って?」
聞き返すと、はっと我に返ったみたいに慌ててかぶりを振り、
「いや、…当然、さっきの吉野の試合がだよ」
取って付けたように言う。
首を傾げる俺の後ろから、本城がこの場に居合わせている面々に尋ねた。
「もう解散したからこのまま駅に向かうけど、タクシーにする? それとも歩く?」
皆の視線が何故か俺に向けられる。
多分身体の疲労を気遣っているんだろうけど、それは野球部の皆も同じだ。
それに、無色とはいえ、濡れたシャツでタクシーに乗るのはものすごく気が引けた。
「北斗、ごめん。歩きでいいか? 駅に着くまでには乾くと思うから」
上目遣いに被害を被った奴を見て、遠慮気味に訊いてみた。
……俺だって、一応責任は感じてるんだ。
「嫌だ、なんて言えないだろ」
素っ気なく返され、やっぱり怒っているのかと心配になったけど、「なら帰ろ。俺達がどうやら最終組みたいだ」
肩をポンと叩いて、「行こ」と誘う。
普段と変わらない態度にほっとしつつ並んで歩いていて、北斗の持っている飲み物に目がいった。
「なあ、それまだある?」
「ん? これか?」
視線の先を察した北斗が、手にした缶を前に掲げ、軽く振ってみせた。
「三分の二ってとこかな?」
俺を見て、意味深に笑う。
「一口、駄目? 会館閉めるって聞いて、慌てて出たから買い損なったんだ」
武道館の外に自販機は一切設置されていない。一階と二階の出入り口の中とホールにそれぞれあるだけで、俺達が外に出ると同時に玄関に鍵が掛けられ、もう中には入れなくなっていた。
だけど裏道を通る為、自販機は駅の手前に一箇所あるだけで、それまで耐えられそうになかった。
「――全部やるよ」
涼しげなブルーの缶がすっと差し出され、「持って」と仕草で促される。
「じゃあ半分もらう。駅に着いたら買うから」
口を付ける前に断って一息に飲むと、かさついた喉が冷えたジュースに潤され、ようやく人心地ついた。
受賞式を終えた後は帰り支度に追われ何も口にできなかったから、すごくありがたい。
「あー、おいしい! ありがと、生き返った」
礼を言って残りを返そうとしたら、
「やるって言っただろ」
と、受け取ろうとしない。
その態度に何となく傷ついて、素直に頷けなくなった。
「なんで? 俺が口付けた後のは、飲みたくないって事?」
「……じゃなくて―――」
頬を人差し指でぽりぽりと掻き、返事しかけた北斗を遮るように、
「はいはい俺! 北斗がいらないなら俺がもらう!」
やかましい声が後から響き、びっくりして振り向くと、手を上げた久保が「いいだろ? 吉野」
何故か瞳を輝かせ、嬉しそうに訊いてくる。
けど、元々これは北斗のだ、勝手には決められない。
そう答えようとした俺の手から缶が奪われ、あれっ? と思う間もなく、取り上げた北斗が目の前で一気に飲み干して、後ろを振り向いた。
「悪いな、久保。俺もまだ一口しか飲んでなかったんだ。誰かさんのおかげで」
ちらっと俺に嫌味な視線を投げておいて、久保に謝る。
「何だよ、それなら遠慮せずにさっさと受け取ればいいだろ! 余計な期待しちゃったじゃないか」
こっちは相当がっかりしたようだ。
だけど……『余計な期待』って、残り僅かのポカリがそれほど欲しかったのか?
そんなに喉が渇いてたんなら譲ってやったのに。
悪い事したなと思っていたら、
「瑞希になら全部やるけど、久保にはやらない」
北斗がきっぱりと、眩暈がしそうな事を口にした。
「ケチくさー、北斗のいけず。なんでそんな意地悪言うかな?」
……子供の喧嘩だ。
「ケチくさくて悪かったな。どうせ俺からの優勝祝いなんてこんなもんだ」
その言葉に「あ、そっか」と一瞬納得しかけた久保が、今度は腹を抱えて笑い出した。
「北斗、セコすぎ……笑いすぎて腹いてえよ~」
苦しそうに身をよじって訴える久保と、
「ちょっと! それを先に言えよ! 優勝祝いなら遠慮なんかしなかったのに」
と、真顔で叫ぶ俺。
そんなやり取りを前方で黙って聞いていたらしい駿が、くるっと振り向いて何故か北斗に目を遣り、同情のような溜息を零した。
「瑞希先輩、鈍感なのもほどほどにして下さい。この街の人達が迷惑します」
相変わらず冷然と言い放った口が、すぐに久住の手で塞がれた。
ほんとに迷惑そうに、団子状態の俺達を避けていく通行人。
このメンバーのほとんどがタクシーにしなかったのを悔やんだのは、言うまでもない気がする。
なんで駿に叱られたのかわからないけど、県大会で優勝したからって性格まで変わるわけないだろ! と一人心の中で喚いて、これからは誰にも迷惑が掛からないように黙って歩いてやる、と心に誓った。
それにしてもこの仕打ち、あんまりじゃないか。
いつの間にかぶつぶつと、今度は小声で文句を並べ立てていた俺を中心に、裏道を急ぐでもなく歩く彼らの表情をふと見ると、何だか妙に楽しそうで……
やっぱりたまにはこんなのも悪くないな、と思い直し、十年前なら可愛かっただろう奴らとの、奇妙な散歩(?)を楽しむことにした。
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