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「―――瑞希、…疲れたのか? 眠い?」
急に黙ってしまった俺に、隣から聞き慣れた穏やかな声がした。
耳に心地いい、安心できる声。
「違う」と言いかけると、
「あ、待って先輩!」
斜向かいから、渡辺が慌てたように声を上げた。
こっちは北斗と対照的な、甲高く元気一杯の声だ。
「ん? どうかした? 大丈夫だよ、眠いわけじゃないから」
どことなく遠慮気味だった渡辺に、いつもの彼らしさを見つけて笑いかけると、
「一つだけ、教えて欲しい事があるんだけど」
神妙な顔付きで言われ、「うん、何?」と、促した。
「決勝戦前のあれ、何だったんすか?」
「―――え?」
身に覚えのない事を訊かれ、きょとんとして首を傾げた。
「『決勝戦前のあれ』って? 俺……何かしたっけ?」
「うん。休憩中に床に手を付いて、その後で瞑想みたいな事してた。何なのか気になって見てたら、決勝戦のコートに向かう前、その手に軽くキスしたでしょ?」
身振りを交えて説明する渡辺の口から、「キス」なんて単語が飛び出したせいか、両隣に座る奴ら(正確には剣道部の仲間と北斗)が、一斉に俺を見つめる。けど……
「―――キス? ……俺が?」
眉根を寄せ「そんなの…」と言いかけて気付いた。
ムーンストーンに口付けた時の事だ。
げ! 何でそんなとこ見てるんだ?
そう思い、内心で慌てまくっていると、
「皆で、何かのおまじないかなって話してたら、あっという間に優勝しちゃって、きっとすごいご利益があるに違いないって」
渡辺が目をキラキラ輝かせて熱く語りだした。
「準決勝で力使い果たしたように見えた先輩がさ、最後の試合に向けて集中していくとこ、生で見て鳥肌立っちゃって……僕にオーラが見えたら、すっげ綺麗だろうなって、ぼけーっと見惚れてたんだ」
……俺には、渡辺の方が何かに取り付かれてるように見える。
さっきまでの控え目な彼はどこへ行った?
日頃『鈍感だ』と、言われ続けている俺でも、何となく嫌な予感がする、と思ったところへ、関達と話していたはずの松谷までが、
「あ、あれね。俺も気が付いた」
離れた所から、俺達の会話にしっかり加わってきた。
「前に座ってた女の子達、いちいち騒いでたぞ、面を外してから特に。こっち側にいた子はみんな得したよな」
などと言われ、赤くなって俯いてしまう。
―――恥ずかしい。そんなに全部、はっきり見られてたなんて……
落ち込んだり復活したり、一人で百面相してたようなものなのに。
「そんなの知らないよ、今まで一度も見た事ない」
本城が両隣の新見や久保に「知ってた?」と、訊いてるけど……あるわけない。
俺も初めてしたんだ。
冷静さを失いかけた時に、あの石のおかげで平常心を取り戻せたから。
そういえば、何で口付けたんだろう?
……何にキスしたかったんだ?
ムーンストーンはただの物で、実際は他の何かの代わりだった気がする。
そう気付いて、あの時の自分の心理状態を思い出そうとしていると、
「それで集中できるならぜひ真似したい。どんな意味があるのか、できたらやり方、教えてもらえないかなって思ったんだ」
その場限りの俺の行動に何故か感動し、真剣すぎる表情で返事を待つ渡辺に、何て言えばいいのか……困った。
「―――『教えて』って言われても、あれはおまじないってわけじゃないんだけど」
最後は口の中で、ごにょごにょと言い淀んだ。
どうしたらいいんだ? 正直に話したとして、問題は……ある。
ムーンストーンは北斗の母さんから貰った物だし、しかも今回は特別に北斗から預かっただけだ。
今後、北斗が持っているのを野球部の中で見る事もあるだろうし、もう知ってる奴もいるかもしれない。
だってあいつは普段、あれに家の鍵を付けていつも持ち歩いてるんだ。
勘のいい奴なら北斗との関係をすぐ疑うだろう。
けど今回は北斗にもフォローできない。
だってあの時、皆とは違う場所にいたらしく、問題のシーンを見てないようだ。
それどころか、さっきからずっと黙って、渡辺への俺の返事を待ってるみたいだ。
「――集中する方法なんて人それぞれだろ? 真似たからって自分も落ち着けるとは限らないんじゃないのか」
困り果て、俯き気味に思案していた俺の目の前で、対照的な落ち着きはらった声が響き、ぱっと顔を上げた俺と目の合った久住が、すぐに教えを請う渡辺に視線を移した。
「俺なんか、同じ事やったらあの時の吉野先輩の姿思い出して、よけいドキドキしそうな気がするけどな」
口にしたのは目上の俺を立てた言い回しだったけど、本心はそうじゃないはずだ。
『自分のやり方で集中できる方法を探せ』と、言外に含ませてる。
この言い方、北斗に似てる。
冷静に物事を捉え、押し付けじゃなくそれぞれに考えさせる久住と、どんな場面でも明るく盛り上げる渡辺。
それに駿の大胆な精神力と、北斗ですら魅入られた生来のカリスマ性。
三人三様だけど、バランスが取れればきっと大きな力になる。
北斗や山崎達が、この後輩を上手く引っ張っていくだろう。
「そっか、うん。それはあるかも」
渡辺も反発せずに、素直に耳を傾けている。久住を認めてるんだ。
「――俺も、久住の言う通りだと思う。それにあれはおまじないでも縁起担ぎでもない。俺がそんな事しないのは、剣道部の奴ならみんな知ってる」
部の仲間を見やって「な?」と同意を求め、自嘲気味に続けた。
「あの時、すごく腹が立つ事があって、自分を見失いかけてたんだ。そしたらタオルに挟んでたお守りが落ちて……拾ってるところを渡辺が見たんだろ」
説明して渡辺を見ると、「あ! そうか」と、大きく頷いた。
俺の説明と、渡辺の記憶とが重なったらしい。
「拾い上げて見つめてたら、不思議と落ち着いてきて、だから感謝の意味で……かな? 自然に口付けたくなったんだ」
何となく照れ臭くなって、少しだけ笑った。「俺、人間できてないから、感情に流されて最低の試合するところだった。来てくれた皆に、そんな試合見せなくてよかった」
ふと、顔を上げると、正面の一年生が揃って俺を見ていた。
「…何、どうかした?」
「―――何でもない。けど…僕、西城に合格してほんとよかった」
ふるふると首を振って答える渡辺に続き、「そうだな」と、相槌を打った久住までが、
「お前の先輩、凄いな。駿が『好きだ』って言うの、わかる。俺もなんか…はまってしまいそうだ」
苦笑しながら「やばいよな」と駿の耳元に告げ、駿がくすぐったそうな笑みを零した。
何が『凄い』のか今一わからないけど、中学の時には見られなかった、楽しそうに久住や渡辺と話す駿を見て、西城に誘った事で……たった一人の身内である母親と引き離してしまった罪悪感から、ほんの少し解放された気がした。
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