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高見の駅で一番に一人だけ下りて――本城と新見は西城高校下で、久保はそこからまだ一駅先の下車になる。
野球部のみんなも荷物を取りに、一旦マリンパークまで戻るというんで、「じゃあな」、「お疲れさん」等、声を掛ける面々に、
「ありがと、また明日な」
と応えてホームに立ち、ドアが閉まるのを待ってガラス越しに手を振った。
駅の階段を下りていると、ズボンのポケットからメールの着信音が微かに聞こえ、取り出して見たら、送り主は別れたばかりの北斗だった。
急用かと急いで目を通すと、仁科さんが〝オアシス〟で夕食を七時に予約してるから、シャワー済ませとけっていう内容で、六時五十分頃に家まで迎えに来てくれると、入っていた。
当然、皆の前でそんな事言えないから、別れてすぐにメールしてきたんだ。
いつの間にそんな話になったのか謎だけど、ほんと上手く携帯を利用する奴だよな…と感心しつつ了解の返事を返し、ついでに時間を見ると、すでに六時十分。
あと一時間もないのに、北斗の方は間に合うのだろうかと心配になる。
でも、俺もあいつが帰って来るまでに風呂に入って、それだけでぎりぎりだなと、頭の中で予定を立てて……それにしても北斗の気苦労を増やす事ばかりしていると、我ながら情けなくて溜息が零れた。
みんなの前で抱きついたのはもちろん、さっきも……電車の中で今日の疲れが出た俺は、知らず北斗にもたれて、うたた寝していた。
それはまあいいんだけど、乗り換えの駅が近付いてあいつが掛けた声で、
「――何、もう朝?」
と、取りようによったらものすごい誤解を受けそうな、とんでもない台詞を口走っていた。
度々北斗に起こされてるから、その声を聞いて自然に出た言葉だったんだけど、隣の久保に、
「なーんかお前ら変……っていうか、怪しいんだよな」
さっきのジュースの一件がまだ尾を引いていたのか、探るような目を向けられた。
「おい吉野ぉ、昼間っから寝ぼけんなよ!」
と、山崎がげらげら笑ってからかったんで、その場はどうにか誤魔化せたみたいだけど、さっきのメンバーで同居を知っているのは、その山崎と駿だけ。
みんないい奴だから、秘密を持たされた側の負担を考えると、これ以上誰にも打ち明ける気はない。
北斗との同居自体、学校にばれたら今の生活を続ける事もできなくなるかもしれないと、遅ればせながら先月にやっと気付いた。
北斗もそれがわかってるから、こうやって細心の注意を払っているんだ。
それなのに、肝心の俺が自分から足引っ張ってどうするんだ…と、深く落ち込んでとぼとぼ歩いていると、ようやく俺の家のグレーの屋根瓦が見えてきた。
建て売り住宅の並ぶこの道筋は、車の通りもさほど多くない。
仕事帰り、買い物等時間によっては多少増えるけど、それでもラッシュになったりはしない。
歩道も広く、北斗が以前教えてくれたように、数年前の大規模な整備で、かなりゆったりとした雰囲気に作り変えられたらしい。
けど、それ以降人口もあまり増えず、平べったい感じの街並みが続き、高層マンション等の類は見つけるほうが困難なほどだ。
角にあるコンビニを通り過ぎると、もう吉野家の全貌が目に入る。
低めのブロック塀と格子の柵に囲まれた、小さなベランダのあるごく普通の二階建て。
南に面した玄関の前のアプローチには、花とかの類は一切なく、和室前のテラスのある庭の片隅に植えられた花水木だけが、唯一季節の移ろいを教えてくれる。
といっても、春、四枚の真っ白な花びらを清楚に咲かせた後、静かに役目を終え、今は青々とした葉だけが夕日にその姿を染めようとしていた。
その木が『花水木』だと知ったのは去年、北斗の母さん、和美おばさんから、自分の名前の由来を聞いた時だ。
母の好きな日本原産の水木は自然の中にあって美しく、滅多に見に行けないし、庭木には花水木の方が望ましかったそうだ。
家を購入した時、ガーデニングを楽しみにしていた母が、最初に植えたのがこの木だったと聞いた。
それから十七年余り――
綺麗に咲いてと、願いを込めて植樹した女性はもうこの世にいないけど、苗木は見上げるばかりの大木に成長し、俺と、この家を、両親の代わりに見守り続けている。
そんな事を考え、家の角に差し掛かると、
「ワン、ワンワン!」
いつもの鳴き声が聞こえ、思わず駆け出した。
カーポートを突っ切り、嬉しそうに尻尾を振るランディーの傍に行くと、待ちきれずに飛びついて頬を舐めてくる。
「ただいま」と声を掛け、大きな身体をゆっくり撫でながら隣にしゃがむと、満足したのか大人しく膝に顎を乗せてきた。
一年前に比べても、少し痩せたのがわかる。
北斗には言ってないけど……目も、視力が落ちているみたいで、夜の散歩の時、もう何回か歩道の段差を踏み外していた。
一度目は「何やってんだ?」と笑い、北斗にも報告したけど、二度目以降は口にできなくなった。
暗闇のせいではない事を知ったからだ。
「―――ランディー、俺……県大会で優勝したんだ」
嘘みたいだろ…と、何気なく話しかけていて――
急に喉元に苦い何かを感じ、目の奥がツンとして……
堪らなくなって、ランディーの首にしがみついた。
両親の事を思い出したんじゃない。
二年前の、中三の北斗の姿が……その時の台詞が、今の俺とだぶったんだ。
夏の県大会で優勝した時、北斗もきっとこうやってランディーに話しかけていた。
俺に……みーちゃんに報告するように。
あいつの中で、俺は確かに一度死んだ。
その時の想いを、北斗は一切語らない。
『ランディーがいてくれたから後悔はない』と穏やかに答えたから、俺も深くは考えず、その言葉通り受け取っていた。
あの北斗が、そんなに簡単に割り切れるわけないと、思いつきもせずに。
だけど今、年老いたランディーに気紛れに告げた俺でさえ、無性に淋しさが込み上げてくる。
それは、最愛の者との別れを予感してしまうからだ。
俺が生きていたと知るまで、自分の事を忘れ形見になってしまった愛犬に聞かせながら、北斗は何を思っていたのか……
それ以上に、俺との死別を経験した北斗が、再びランディーの死に直面した時、俺は、あいつを支えてやれるんだろうか?
俺自身、ランディーがいなくなる事に、耐えられるのか……。
飲み込まれそうな不安に襲われ、腕の中の温もりを確かめるように、強く抱き寄せた。
今はただ、俺を見つめる無垢な瞳がまだ永遠に閉じてしまわないように……
その日が、遠い未来である事を祈るしかない。
ランディーとの別離を自然に受け入れられるくらい、俺達がもっと精神的に強くなるまで。
「……ランディー、長生きしてくれよ」
以前にも言った言葉を繰り返してやると、頭を持ち上げて俺の出した手の上に、甘えるようにあごを乗せる。
夢に見た子犬の頃の、ランの姿が重なった。
――俺の飼っていた愛犬。
本当なら、北斗の抱える淋しさは、俺の体験するべきものだ。
失われた十一年、その間に北斗からの愛情を受け続けたランディー。
こいつが俺を覚えていたのは本当に奇跡としか言いようがないけど、それすら北斗が俺を忘れずランディーに聞かせ続けたからだと思えるのは、都合のいい解釈だろうか?
だけど、ランディーの中での一番は、間違いなく北斗だ。
それに関して、もう子供じみた嫉妬はしない。
「なあランディー、お前…北斗が好きだろ? 俺もあいつ大好きなんだ。
だから――もう二度と、哀しませるような事したくないよ」
矢織先輩が言ったみたいには北斗の事を思えないし、あいつ自身、俺に対して恋愛感情なんか持ってやしないと断言できる。
そんな感情がなくても、北斗は俺の一番大切な奴だ。
ランディーの身体をもう一度強く抱き締めて立ち上がり、今日の散歩は久しぶりに北斗と一緒に行こうと決めて、玄関の鍵をズボンのポケットから取り出した。
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