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今夜は川土手に寄らず、その辺を軽く歩いてくるだけにして、早めに散歩を切り上げ、帰宅後、もう一度簡単にシャワーを浴びた。
温めの湯で汗を流し、洗面所のドライヤーで濡れた髪を乾かしてキッチンに行きかけると、脱衣室のドアが開き、シャワーを終えた北斗が短くカットされた髪をタオルで拭きながら出てきた。
「早や! もう上がったのか?」
驚いて声を掛けると、
「今日三回目のシャワーだぞ、のんびりしてたらふやけてしまうだろ」
顔を上げ、じろっと睨んで言い返された。
二度目のシャワーは、俺が抱きついた拍子にジュースを浴びたせいで、マリンパークから帰るとすぐ風呂場に直行していた。
やぶへびになりそうでそれ以上は何も言わずキッチンに行き、冷蔵庫から天然水のペットボトルを取り出そうとしていると、北斗が傍に寄ってくる。
並んで中を覗く髪から同じシャンプーの香りがして…それが何となく擽ったくて、誤魔化すように訊いてみた。
「何? 北斗も飲む?」
「ああ。けど、飲むのはこっち」
中身の少ない冷蔵室からさっきの買い物袋を取り出して、俺の腕を掴み、ダイニングに引っ張って行きだした!
「ちょっ…と、待てよ! まだ水持ってないんだよ」
ずるずる連れて行かれながら、思わず叫び声を上げると、
「持たなくていい。用意してるから」
有無を言わせずいつもの席に座らせ、袋の中身をテーブルに並べていく。
その手元に、文句を言いかけた俺の目が釘付けになった。
種類の違う――しかも『お酒』って明記してある――カラフルな缶が四本、白桃とグレープフルーツ、マンゴーに青りんごと、どれもなじみのある……いや、マンゴーはあまり知らないけど、ともかく俺の好きな果物の名前と、なじみのない『アルコール分○%』という文字が、どの缶にも記されていた。
「………何? これ」
「俺からの優勝祝い」
空になった袋を括り、カウンター横の空き袋入れに放り込んで俺に向き直ると、悪戯っぽい笑みを唇に乗せた。
「久保に『セコい』って言われたからな」
……そんな事、気にするようなお前じゃないだろ、と思っても口には出せない。
「お神酒なら飲んだ事あるけど、この『アルコール分5%』って、きついのか弱いのか、今一わからないんだけど?」
四本の内の一本を手に取り、成分を目で追いながら訊いてみると、
「そうだな、%はビールとほとんど同じかな」
向かいのイスを引き、腰を下ろして北斗が答える。「でも口当たりは悪くないから、ビールより断然飲みやすいと思う」
「ビールッ……」
自分の出した声の大きさに、自分で驚いた。「――『より飲みやすい』って…北斗、そんなの飲んでんの?」
何故か小声になった小心者の俺に、
「ここではない」
とぼけた表情で返すけど、俺の家での話をしてるんじゃない。
「それはわかってるよ、誰と――あ、仁科さん?」
一人だけ大人の男性を思いついて口にすると、軽く頷いて、
「それと、お袋の相手にな」
もう一人補足した人の名前は、すごく意外に思えた。
「おばさんも飲むのか?」
「中学くらいから時々付き合わされてた」
当時を思い出し、懐かしそうな目をしてクスッと笑った北斗が、僅かに表情を変えた。「仕事が看護師だろ、オペ室勤務になった時……特に交通事故で運ばれた患者が手術中にもたなかった時なんか、結構堪えたみたいでさ」
「そう……」
きっと俺の両親、特に母さんの事があったせいだろう。
『大人も子供も、大切な人がいなくなる寂しさや悲しさは一緒』
確かにその通りだ。
おばさんも、ずっとその悲しみを引きずって生きている。
多分俺と同じ、一生記憶から消える事はない。いや、消そうとはしないんだろうな……。
「言っとくけど」
いきなり身を乗り出して切り出され、テーブルに落としていた視線を上げると、
「友達と飲んだ事はないぞ、今日が初めてだ」
可笑しいくらい真面目な顔で訴えるから、ついからかってみたくなった。
「ホントにー?」
小首を傾げ、疑いの眼差しを向けてやったら、
「お前ほどじゃないけど、学校では品行方正で通してるんだ。家以外で飲んだ事も、こうやって自分から誰かを誘った事もない」
きっぱりと言い切った。
「山崎とかとも?」
「当たり前だ。あいつにそんな事してみろ、底なしにはまっていくに決まってるだろ」
そんな事させられるか、と、軽く睨まれた。
一応相手を選んでるのか。なら俺はそういった面では信用してもらえてるんだ。
そう思うと何となく嬉しくて、自然に顔がほころぶ。
「なら、本当に今日だけ特別なんだ」
「ああ。一番親しい奴が望んでた大会で優勝したんだ。これくらい祝って飲んだって、誰も文句なんか言わないだろ」
そこでやっと、さっきのおばさんとのやりとりに合点がいった。
確かに……呆れるほど要領がいい。
俺の優勝祝いなら多少は目を瞑るだろうし、おばさん自らが買うんだ、親にとってこれ以上安心な事はない。
そう気付いて上目遣いに目の前に座る奴を見ると、表情を読んだらしく、しらばっくれて尋ねてきた。
「で、瑞希の好みは? お前の好きなフルーツは教えといたんだけど、お袋に選んでもらったからな。どれを飲んでみたい?」
道理で、好きなのばっかりあるはずだ。
その中でマンゴーは、多分自分が以前飲んで美味しいと思って頼んでおいた一本だ。
おばさんは頼まれた物を勝手に変えたりしない。
俺の好みの物だけじゃない、その北斗好みの一本が心の負担をすごく軽くしてくれる。
「全部お前の為に買った」、なんて態度されたら申し訳なくなってしまうけど、北斗もちゃんと楽しんでるってわかるから俺はいつでも自然体でいられる。
そんな相手に「どれを飲んでみたい?」なんて訊かれたら、遠慮なんかする必要ない。興味も好奇心も一応ある。ただ機会がなかったのと、そんな事を俺相手に勧める人がいなかっただけだ。
「じゃあ、全部」
半分本気で半分は冗談…というか反応を見たくて言ってみた。
「北斗と半分こして、味比べしたい」
一瞬見開いた瞳をすぐに細めた北斗が、
「そうきたか。ならグラス持ってこないと」
嫌な顔も見せず、何故か嬉しそうに食器棚へ向かう、その足取りもやっぱり軽かった。
ガラスのコップ‐『グラス』なんて上等なものじゃない‐を手に戻ってきた北斗に、
「えっと…まずはこれ、グレープフルーツ」
プルを開けた缶を差し出すと、「了解」と受け取り、半分ずつ注いで片方を俺に渡し、
「改めて、優勝おめでと、瑞希」
手にしたもう一つのコップを眼前に掲げ、祝ってくれる。
「ありがとう。北斗も練習試合での圧勝、おめでとう」
お互いに腕を伸ばし、縁をコツンと当てると、思ったより濃い、乳白色の液体が、コップの中でゆらゆら揺れた。
見詰めながら口を付けかけて……何だか笑いが込み上げてきた。
フフッと零れた笑みは中々収まらず、笑い続けていると、北斗が不思議そうな目を向けた。
「瑞希? お前、香りだけで酔ったのか?」
「まさか、そこまで弱くないよ。そうじゃなくて、すっかり北斗に乗せられてるなって思ったら、笑えてきただけ」
それだけ言って一口飲むと、ほんのりと苦く、グレープフルーツ100%のジュースと言われても、全然違和感のないような味が、口一杯に広がった。
さっぱりしていてすごく、
「おいしい! え、何これ、ホントにアルコール入ってる? すごい飲み易いんだけど」
「チューハイはほとんどこんな感じだぞ。口当たりいいからつい油断してしまうけど、さっきも言ったようにアルコール分はビール並みだから、弱い奴はすぐ足にきたりする」
『お前も気を付けろよ』と、楽しそうに見つめる瞳が言っている。
「大丈夫だって。普段の酒はおじいさんしか飲まなかったけど、田舎ってまだ昔からの行事、大切にするだろ?」
「ん? そうなのか? 古いしきたりとか、あんまり知らないなあ」
空を見つめて考える様子に、「あ、そっか」と納得した。
「こっちじゃ、そんな機会もないかもな」
ましてや看護士を仕事にしている母親との二人暮らしだった北斗に、そんな時間的余裕も、精神的なゆとりもあるはずなかった。
それなのに、なぜ散らし寿司が作れるのか? おまけに稲荷寿司も。
ほんと不思議な奴。
こっちは、いくら母子家庭だったからと言われても、納得できない。
理由を訊いてみたかったけど、やっぱり止めて、俺の話に興味を持ったらしい北斗に、田舎での特別な行事を少しだけ教えた。
何となくだけど、その方が北斗も喜びそうな気がしたから。
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