約束の場所へ

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約束の場所へ

   ―――頼む、間に合ってくれ!   一体何に間に合えばいいのか、自分にもわからない。  それでも心の中でそう願い、通い慣れたマリンパークの駅の階段を二、三段とばして駆け上がり、目の前で閉じようとするドアの隙間へ滑り込んだ。  天井からの冷気が汗ばんだ全身を包み、照りつける日差しと梅雨独特の蒸し暑さから解放してくれる。  荒い呼吸を整えて、エアコンの風で身体の熱を下げながら息を吐いた。  目的地への最初の電車に何とか間に合い、ほっとしてドアの脇にもたれると、遠ざかる海に目を遣った。  中に流れる、ひんやりとした空気が気持ちいい。  そういえばあいつが乗ってきた時も、こんな爽やかな風が車内を吹き抜けたような気がしたと思い出す。  あいつ――吉野瑞希を初めて……いや、十一年振りに見つけたあの日――                ・          ・          ・                                                 「北斗! 待たせて悪い。どうしたんだ? 会社に来るなんて初めてじゃないか」  昼前の突然の訪問に気分を害した風もなく、にこやかに笑いかけ近付いて来る父に、 「仕事中ごめん」  と謝って……  続く言葉を言い出せず、もう会えなくなる父の穏やかな笑顔をいつでも思い出せるよう、心に焼き付けた。 「ちゃんと前もって電話くれたじゃないか」  そう言うと、着慣れないブレザー姿の俺を眩しげに見つめた。 「もしかして、西城の制服を見せに来てくれたのか?」  目を細め嬉しそうに尋ねる父に、「そうじゃないよ」と緩く首を振り、覚悟を決めた。 「俺……もう父さんに会わない」  もっと違う言葉でやんわりと言うつもりだったのに、口から出たのはこれ以上ないくらいストレートなもので、驚きに瞬きすら忘れて俺を凝視し、 「なに馬鹿な事を……」  唖然として言いかける父に向かい、わざと突き放すように言い切った。 「もう姿を見せることもないから、安心して」  自分のものとは思えない、冷淡な声。  嫌味な言い方になったのは、父の今の恋人、幸子さんへの嫉妬だったかもしれない。  けど、告げた内容の重さに耐えられなかったのは、間違いなく俺の方だった。  子供っぽい真似に気付き父の顔をまともに見返せなくなって俯きかけると、肩に両手がガシッとかかり痛いくらいに掴まれた。 「何でそんな事言うんだ? お前に会えなくなって安心なんかする訳ないだろ!」  自分の会社のすぐ目の前の公園にも関わらず、大声で怒鳴られて胸が一杯になる。  俺の事、少しは大切に思ってくれていたんだと実感できたから。  でも、一度自分の口から出た言葉は白紙には戻せない。  黙り込む俺に、 「なあ、本当にどうしたんだ? 急にそんな事言われても納得できるわけないだろ? 母さんに何か言われたのか? それとも俺が何かしたか?」  思いつく限り、可能性のある事を並べ立て顔を覗き込む、優しい瞳。  これ以上ここにいたらその言葉に甘え、全て打ち明けてしまいそうで……肩に掛けられた手を振り払い、呆然と俺を見返す父に、ゆっくりと後退りながら告げた。 「――俺、父さんに野球教えてもらった事、本当に感謝してる。それだけは忘れないで。俺も……絶対忘れない」 「ちょっと待て北斗! ちゃんと訳を言ってくれ」  再び伸ばされた手に、今度は捉まらないよう距離をとった。 「さよなら…父さん、今までありがとう。……俺、父さんが大好きだった」 『だから、あの人と幸せになってよ』  そう言って微笑むつもりだったのに、とうとう口にできなかった。  あと一言でも発したら、堪えていたものが関を切って溢れ出しそうで、それが怖くて逃げるようにきびすを返し、駆け出していた。    西城高校入学式の日、俺は今までの生活に区切りをつける為、実の父に自分から別れを告げた。    
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