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その前年、夏季総体県大会で、俺達、西城中学軟式野球部が優勝し、地元新聞を賑わせた初秋、俺の携帯に掛かってきた一本の電話。
覚えのあるナンバーと、馴染みのない女性の声に、何となく嫌な予感はしていた。
「一度でいいから会いたい」、そう言われ、仕方なく行った喫茶店で俺を待っていたのは、儚げで美しく、哀しそうな瞳をした大人の女性―幸子さんだった。
震える声で「野球をしないで」と、「私達の前に姿を見せないで」と訴えられ、何も言えず俯いてしまった。
原因は俺達の載ったスポーツ紙。
大きく扱われた西城中の記事を大事そうに手元に置き、何度も読み返す恋人―父の姿を見て、俺や母の元に戻るかもしれないと不安になった彼女の、悩んだ末の行動だった。
彼女を恨む気になれなかったのは、その苦しみが本物だったからだ。
「――酷い事言ってごめんなさい……」
涙を零して謝り続けるその姿には、嘘も偽りも感じられなかった。
生涯看護師として、一人でも多くの患者を救いたいと願う母とは、あまりにも対照的な生き方。
ただ一途に、父だけを愛している……そんな、少女のような女性だった。
彼女の存在を知るまで、俺は家を出た父が再び戻ってくる事に淡い期待を抱いていた。
その願いが脆くも崩れ去った時、母の再婚の可能性をやっと意識し始めた。
母にも三年近く懇意にしている、ホームセンター店長の仁科さんという人がいる。
何故か俺を本当の息子のように可愛がってくれる、懐の深い気さくな人だ。
それまで考えもしなかったし母も何も言わなかったが、仁科さんとなら再婚してもいいと思っているのかもしれない。
だけど、どんなに相手がいい人でも、十五にもなって新婚の母親と一緒に暮らすなんて絶対嫌だった。
幸子さんに会い、彼女の悲痛な訴えを聞いた時、俺の未来は大きく変わってしまった。
中学三年の二学期終わり、進路用紙に書いた希望校の名は、西城ではなかった。
幸子さんから少しでも遠ざかりたくて
二人の仲を裂く原因になりたくなくて――
本音を言えば、もう親の都合に振り回されたくなかっただけかもしれないが、県外の高校を本気で探していた。
俺が思い留まったのは、年が明けてすぐの異常な寒波で、ランディーがひどく体調を崩したからだ。
一週間ほどで元気になったものの、老いは加速度をつけて目に見えはじめた。
このままランディーと離れたら、この街を出て行った事を一生後悔するかもしれない。
老犬を看病しながら、そんな予感に襲われた。
もう十年も俺を見守り、いつも傍にいてくれた大切な友達だ。
何よりランディーは、俺が幼い頃に一緒に遊んでいた大好きだった友達の大切な忘れ形見だ。
最期まで離れたくない。
その為には母が再婚する事になっても、このアパートで一人、生活すればいい。
そう考え直した時、進むべき道が見えた。
部活は野球以外興味ないし、その野球も二度とする事はない。
皮肉にも、時間はたっぷりあった。
それに中学の時たまたま知り合った、マリンパークのスイミングスクール責任者の片平さんから、高校に入ったらぜひ監視員をしてほしいと頼まれていた。
まるで今の俺の為に用意されていたような未来が、本当にありがたかった。
母からいつ再婚話を切り出されても、「大丈夫、俺は一人でもやっていける」、そう言えるように、受験勉強の傍ら手伝いを装って洗濯等の家事を覚え、息抜きと称して料理のレパートリーも増やしていった。
もちろん母子家庭だったからある程度の事はしてきたが、反対される要因を少しでも減らす為、とにかく必死だった。
そして、無事西城高校に合格。父にもその事は報告した。
だけどそれで終りにすると、俺はもう決めていた。
父に面と向かっては何も言えなかったけど、大人の身勝手さを恨むほど自分を不幸だと思ったことはないし、それ以上に幸子さんの苦しみの方がより切実に思えたから。
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