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自覚したのは突然だった。
瑞希の両親の十三回忌の法要で訪れた、二度目の田舎。
温泉に行きたいと望んだのは俺で、瑞希と孝史はそれに快く付き合ってくれた。
瑞希の体調が優れなかったのも気付かずに、話の途中で露天風呂へ行ってしまった俺は、
「成瀬! 来てくれッ、瑞希が―――」
露天風呂へのドアを壊れそうなほど荒っぽく開けて叫んだ孝史の慌てふためく声に、冷水を浴びせられた気分だった。
急いで戻った湯舟で、両腕と頭をぐったりと浴槽の縁にもたせ掛け喘いでいる瑞希を見た瞬間、血の気の引く思いがした。
―――この感じ、前にも一度体験した。
デジャビュじゃない、実際に遭遇してる!
その時の事を身体が覚えていたのか、動悸が激しくなり足元から力が抜けていきかける。
そんな自分を叱咤し、とにかく瑞希の身体を引き上げ、後を孝史に任せ、Tシャツとジーンズだけ身に着けて、おばあさんの持たせてくれた大判のタオルを手に駆け戻った。
濡れた上半身を包み水気を拭き取ってやる横で、心配そうに見つめる孝史に、どこか寝かせられる場所の確保と家への連絡を頼み、身体を抱え上げ、想像以上に軽い体重に驚いた。
正月明けから瑞希の食欲が落ちていた事を思い出し、後悔に唇をきつく噛んだ。
苦い思いで両腕に抱いて脱衣場まで移動させ、床に寝かせて着替えを探した。
服を着た孝史が「あと頼む」と言い置いて出て行き、瑞希と二人だけになった部屋で、他の客がいない事に感謝しつつ、それでも不安は隠せなかった。
熱く火照った身体に触れる自分の指先が震える。
わかっている、これは怖いからじゃない。
こんな体験はバイト中に何度もあった。
こいつはプールで溺れかけた、ただの生徒だ。
そう思う事にしてTシャツを着せていくと、ぐったりした両腕に袖を通すのは、どうにかできた。
けど、上半身を持ち上げた時の身体の熱さが気になり、それ以上着せるのを止め、下着を……それもフィットタイプのトランクスを手に、固まってしまった。
タオルの端から伸びる少女のように滑らかな、それでいてひ弱さを感じない、しなやかな両足。
一緒に風呂にも入って見慣れていたはずなのに、目の前で力なく横たわる瑞希の半裸姿が、俺の鼓動をまたおかしくさせた。
「―――この馬鹿」
口を突いて出た悪態で、少しだけ冷静さを取り戻した俺は、瑞希をけなすことで必死に気を紛らわそうとして――思い出した。
去年の一学期終了式の日の夕方、吉野のおじいさんからかかってきた瑞希への電話を受けた時と同じだったんだ。
しかも、あの時も瑞希と別れた直後だった。
「何で…お前はこんな気分ばっか、俺に味合わせるんだ」
そんな文句を言いながら膝を立てさせ、下着に足を通した。
そこまでやったら、後はやけくそだった。
腰の下に片手を差しこみ、もう片方の手で何とか上まで引き上げると、身体中の力が抜け、その場にへたり込みそうになった。
「しっかりしろ!」と自分に言い聞かせ、再び瑞希を抱き上げ脱衣場を出て、カウンターに向かう。と、その奥からここのマネージャーらしき白髪混じりの中年の人が出て来て、「こっちこっち」と手招きをした。
その胸元のポケットには、やはり『支配人』の肩書きが付いたIDカードがクリップで留めてあった。
「布団用意したから、そこに寝かせて」
田舎のスパらしく、ぶっきらぼうではあるが、一旦閉めた襖をすぐに開けてくれた。
「すみません、迷惑かけます」
礼を言う俺の腕の中でぐったりする瑞希を見て、顔を曇らせた。
「救急車呼んだほうがよくないか?」
その心配そうな様子に、この人の立場を悟り笑顔を作って首を振った。
「大した事ないと思うんで、必要ありません」
孝史に状況を聞いていた俺は、その前後の瑞希の様子とを考慮して、はっきり答えた。
「睡眠不足の上に体調不良だったんで、湯当りしただけだと思います」
今朝、田舎に向かう列車の中で、俺の肩にもたれ、うとうとしていたのを思い出す。
「このまま少し眠れば、気分もよくなると思います」
そう言い切った俺に、その人もそれ以上は何も言わなかった。
取り合えず水分補給に水を一杯だけ頼み、部屋に入ると、用意された布団の上に瑞希の身体を静かに横たえ、足元に畳まれた薄手の布団を掴んで胸元まで引き上げた。
ほどなくして水の入ったコップと、濡れたタオルを載せた盆を持って来てくれた支配人に、礼を言って受け取ると、
「何かあったら遠慮なく呼んでくれよ」
それだけ言い置いて襖を閉め、部屋を出て行った。
数人とはいえ、ロビーにいる客を放っておくわけにはいかないのだろう。
他に従業員は見当たらなかった。
息を吐き、枕元に盆を置いて腰を下ろすと、暖房を入れて間がないのか六畳ほどの和室の空気は少しひんやりしていて、急に寒気を覚えた。
身体を抱き締めて僅かに身震いすると、うわ言のような微かな声が聞こえた気がした。
顔を覗き込み、汗をかいているのに気付いて、好意かマニュアルか、一緒に用意してくれたタオルを手に取り、額から頬、首筋にかけて拭いてやった。
それを盆に戻しかけて、飲ませるつもりで頼んでいた水の事を思い出した。
盆を手元に引き寄せて布団を腰の辺りまで捲り、上半身を少し起こして膝に抱えた。
空いた方の手でコップを取ると、口元に縁を当て水を触れさせてやる。
けど、瑞希の唇は固く閉じられたまま、飲む気配すらなかった。
仕方なくコップを盆に戻し、柔らかな頬をつつきながら呼びかけてみた。
「瑞希、口開けてくれないと飲ませられないだろ」
まだ僅かに上気した寝顔を見つめ、額にかかる前髪をそっと払ってやり、癖のない、さらっとした髪を梳いていると、不意に……自分の中に激しい衝動が沸き起こった。
―――瑞希が……欲しい。
それ以外のことは、頭から抜け落ちてしまった。
膝の上で安心したように眠る瑞希の頬に手を添え、いつの間にか押し当てて感じた唇の熱は、どちらのものだったのか。
自分の行為がどんなに卑劣か、十分すぎるほどわかっていた。
両親を亡くした時の事故の記憶を、瑞希が取り戻した夜。
不能の原因が彼自身への激しい自己嫌悪による可能性を感じ、瑞希への密かな恋心はしっかりと封印したはずだった。
瑞希に恋愛感情を持って触れたら駄目だと、あの日から幾度となく言い聞かせてきた。
なのに今、あまりにも無防備に膝の上で眠る瑞希を前に、俺は間違いなく欲情していた。
川土手で瑞希の告白を聞いた時の、自分でも戸惑いを覚えた反応とは明らかに違う、強烈な欲望。
きっと、浴槽で裸のままぐったりしている姿を見た時から、俺の理性は吹き飛んでしまっていた。
頬に添わせた手を顎に滑らせ、僅かに力を入れた。
あっさりと開かれた口を再び塞ぎ、舌を絡ませると、もう自分を抑え切れなくて……貪るように激しい口付けをしていた。
二度目のディープキスは罪深く残酷で、それでいて眩暈がしそうなほどの恍惚とした幸福感を、一瞬だけ俺に与えた。
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