秘密のひととき

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大勢の人が行き交うターミナル駅から程近い大通りを、少し歩いた曲がり角。 三番目のその角を曲がった先にある狭い道には、普通に歩いていると見逃してしまうくらい小さな木製の看板がある。 その看板にはこう書かれていた。 『喫茶Cleome』。 名前は「クレオメ」という花に由来するらしい。花言葉は確か…何だったかな。 とにかく知る人ぞ知るその喫茶店には、更に一部の者しか知らない不思議な空間があるのだった。 その喫茶店は到底分かり易いとは言えない店構えながら、老若男女問わず結構な人気を誇っていた。 平日の昼間は勿論のこと、休日にもなれば店の外に行列ができるほど。 定番メニューは何だったか。 熟練した店主の淹れる珈琲だったか、それともいかにも写真栄えしそうなカラフルなスイーツだったろうか。 店に並ぶ人々の顔は期待に満ち溢れているが、一体何を目当てにこの喫茶店に吸い寄せられるように並んでいるのかは誰にも分からないようだった。 メニューは至って普通だ。珈琲もミルクティーも少しレトロな雰囲気を感じさせる店の内装も、居心地が好く決して悪いものではなかった。 だがそこまで行列ができるほどだろうかと、初めて足を踏み入れた時に思ってしまったことは確かだ。 席に居られる制限時間などはなく、お客さんは各々好きなものを頼んで楽しくお喋りに興じている。 店の外に行列ができている時でさえそれは変わらず、それでも構わないという風に外のお客さんたちは席が空くのを待ち続けるのだ。 一部の人を除いては。 列に並んでいると店員が一人一人に声を掛け、メニュー表を渡す。 そうして暫くするとまた店員が戻ってきて、言うのだ。 「ご注文はお決まりですか」と。 そこまでは何の変哲もない普通の流れだ。どこにでもある店の、至って普通の対応だろう。 だがそこでメニュー表には載っていない、とある特定のメニューの名前を口にした者だけが、別の場所へと案内される。 「それではこちらでお待ちください」と店員が連れて行く先は、店の奥のトイレの先の、更に奥の扉の向こうだ。 その扉を開けると地下へと続く階段がある。 少し古びた木がキシキシと音を鳴らすその階段を下りると薄暗い廊下が伸び、その突き当たりにぽつんと明かりが点いた部屋があるのだ。 そこが俺の勤め先。 誰にも内緒の、秘密の仕事場である。 俺とお客さんの間には顔が見えないように黒い衝立があって、お互いに向かい合う形で座る。 照明は上の喫茶スペースと比べるとやや薄暗く、黒いカーテンの脇に間接照明が置いてあるくらいだ。 お客さんの希望があれば変声機も使えるようになっており、個人情報は一切漏れることのないよう配慮されている。 俺から見えるのは黒い衝立くらいだが、チリンという可愛らしい音がお客さんのご来店を知らせてくれる。 ここには誰にも話せない愚痴や秘密を暴露したい人たちがやってくる。 結婚生活に疲れて不倫をしてしまったという話や学校で仲良くしている子の彼氏と両想いになってしまったという話から、果ては大手の会社に勤めるサラリーマンの愚痴や大物政治家の暴露話まで。 その情報が漏れてしまえば翌日の朝刊の一面を飾るのではないかという話も少なからずあった。 しかし勿論のこと、ここで話される内容はどのようなことでも他言無用。絶対に誰にも、どこにも漏らされることはない。 それがルールであり、『約束』なのだ。 そんなに誰にも知られたくないのならば壁にでも話していればいいじゃないか、と思われるかもしれない。 しかし相槌を打って話を聞いてくれる存在というのは存外重要なもので、「誰かに話している」という感覚が人をより饒舌にしてくれるらしい。 そう、ここでの俺の仕事はその聞き役なのだ。 絶対に破ってはいけないルールは主に以下の通り。 一つ、この部屋で聞いた話は例え小さなことでも他言無用。 二つ、相手の話を否定するようなことを言ってはいけない。積極的に肯定もせず否定もせず、中立の立場を保つこと。 三つ、相手の個人情報を探るようなことを言ったり尋ねたりしてはならない。 これは話の流れにもよるが、基本的にお見合いのようにこちらから何かを質問することは控えるようにとのことだ。 とは言えこの部屋は暴露話を話にくる場所でもあるので、俺が質問するまでもなくペラペラと話されることがほとんどである。 そして四つ目。これが最も重要な掟だ。 俺の正体を、知られてはならない。 これは一つ目のルールに通じるところもあるが、本当に多種多様な人々が話をしにくるこの場所ならではの約束事らしい。 店長曰く、「俺の身の安全を守るため」だそうで。 もし仮に俺がこの秘密の地下室の相談役であるとバレたなら、どこで誰が俺を狙うか分からないという。 新聞の一面を飾りそうな重要な話でさえ聞いてしまっている俺だから、もしかしたらそういった情報が漏れるのを恐れる誰かに狙われることになるかもしれない。らしい。 一つ目の「他言無用」という掟は勿論ここに話をしにきた人々のプライバシーを守るためのものでもあるが、同時に俺自身の安全のことも考慮して定められたものなのだ。 だからなのか、この仕事は結構…いやかなり給料が高い。 ここで働くにあたってのルールを聞かされた時は「店長がやればいいじゃん…」なんて思ったが、給料のことを聞いてしまえばそんな考えはすぐに吹き飛んだし、何より始めてみればやりがいもそこそこにあった。 部屋に来た時はどんよりとした声色の人が、俺がただ相槌を打って話を聞いているだけで明るくなって帰ってゆく。 勿論聞いていて気持ちの良い話ばかりではないし、言ってしまえば愚痴吐き場のようなところなので気持ちが落ち込んでしまうこともある。 それでもここを訪れる人たちには俺のようなクッションみたいな存在が必要なのだろうと、続けていくうちに誇りを持つようになった。多分。 まぁもう少し給料の高い仕事があれば目移りすることもあるかも知れないが、今のところ不満は無い。 学生の頃から聞き上手だと言われてきた俺の才能が役に立っているのだと思うと嬉しい。あと賄いも普通に美味いし食費も浮いてありがたい。 初めに誓約書を読んだ時は怯んだりもしたが、今ではこの仕事が結構気に入っていたりする。
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