おかえり、沖野

10/26
前へ
/26ページ
次へ
 沖野は黙って、プールから上がった。  スイミングキャップが僕の側を流れて行き、彼女の長い髪があらわになる。  それを黒田たちは相変わらず、にやけながら見ていた。むしろ、「お前のせいだぞ。」と互いに罪を擦り付け合い、「やっぱりできてるんだ。」と冷やかす。  けれど、沖野は顔色一つ変えずに、黒田たちに言った。 「私、黒田くんのことが好きなの。」  時が止まったように、しんとするプール。水面が波紋を描く音が聞こえそうなほど、静かな時間だった。  日差しのせいだけじゃない。黒田の顔が真っ赤になる。 「うそだー!」  やっと我に返った黒田が、大声をあげる。しかし、声の割には覇気がなく、自信もなさそうだ。というより、戸惑いすぎて声の行方が迷子になっている。  沖野はそれを軽くあざ笑うと、いたずらっぽそうな目でゆっくりと黒田に近づいた。中学生らしからぬ、強烈な色気だった。それを誰もが息をのみ、その先を追いかける。  気づけば、黒田はプールの淵まで追いやられている。  振り返ればもう後がない黒田に、沖野はさらに近づく。そして、ささやくように言った。 「ここでキスして証明しようか。」  僕は黒田の水着が盛り上がったのを見てしまった。  次の瞬間、沖野が指先で黒田の肩をついと突いた。黒田はゆっくりと、倒れていく。  バシャーン!となまめかしい緊張を打ち破る、大きな音が響く。水しぶきがカラカラに乾いたアスファルトに黒い染みをつくった。  沖野はクスクスと笑っている。 「ごめんね。冗談よ。」  全員がなぜかほっとするなか、黒田はバシャバシャと音を立てて暴れていた。 「おい!沖野!ふざけんな!」 「ごめんね。もしかして泳げなかった?」 「泳げるよ!バカ!」  小学生レベルの悪態をつく黒田に、沖野は微笑みかけ、「ごめんね。」と言って手を伸ばす。  黒田は膨れながらも、その手を取ろうと、彼もまた手を伸ばす。みじめな僕はそれを眺めながら「とるな!」と心の中で叫んだ。 「おい!何やってんだ!」  プール中を震わせる怒号が、校舎側から発せられる。2組の全員が首をすくめ、その声の先を振り返る。  鬼の形相の担任がいた。  プールの中にいる黒田は、「まずいなぁ。」という顔を全面に表している。 「黒田!プールから上がれ!」  担任に激昂され、黒田はそそくさとプールから身を上げたが、即座に頭をはたかれた。 「まったく、お前、なにやってんだよ。」 「でも、これは沖野が。」  黒田はそう言って、沖野を振り返るが、彼女はそっぽを向いている。  それを見て、僕以外のクラスメイトは笑いを必死にこらえていた。沖野の完全勝利だった。  それ以来、女子からは尊敬のまなざしを。男子からは憧れのまなざしを沖野は受けることなる。  しかし、器の小さい僕はそれをやっかまずにはいられなかった。 「なんで助けたの?」  美術室へ向かう階段の上で、沖野は振り向き、首を傾げた。 「ごめん。実は泳げたの?」 「そうじゃなくて!」  この激情が黒田たちに出ればよかったのに。臆病な僕はか弱そうで、唯一の同じ惑星仲間の冲野に牙を向いた。  沖野は何の感情もなさそうに僕を黙って見つめる。愚かな僕は、それが彼女の怒っているサインなのか、悲しんでいるサインなのか、そもそも彼女が何を考えているのか推し量る余裕はなかった。 「助けてくれなくてもよかったのに。」  そう言わないと、僕の心が折れそうだった。  ようやく沖野は困ったような顔をする。 「沖野はさ。なんでもできるから、僕のことも、みんなのことも見下してるんだろ?  さっきだって、あんな思わせぶりな態度とったらさ、黒田だってこれから勘違いするし、彼がかわいそうだよ。それにさ、沖野はそうやって、誰よりも優れてます。って、態度とるから、友達がいないんだよ。」  好きだと言われなくても、「友達」だと沖野に言ってもらえたなら、僕はそれだけで幸せだったのかもしれない。  なのに、僕はそれさえ自分で切り捨てた。  僕は友達じゃない。と言ったのも同然だ。 「言ってやった」という気持ちを持ちながら。  次の瞬間、沖野は階段をひとっ飛びした。  少し両手を広げ、背中に光を背負って、舞い降りてくる彼女は不死鳥のようにきれいで、この世の創造物のように見えた。沖野が飛び立つ瞬間も、僕のすぐ目の前で着地する姿も、顔をあげ、揺れた髪も、僕に振り上げた手も。全てがスローモーションに見えた。  手?  そう思った時、僕はぶたれていた。  人をぶち慣れていない沖野の一撃は下手くそで、僕のこめかみを強くうち、手のひらは瞼を強く推していった。 「イッた!」  目に一撃が入ったことで、僕は予想以上のダメージを受けた。僕は目を閉じてしゃがみ込む。痛いの半分、沖野が心配してくれるのではないか。という期待半分で、ながらくそこでそうしていた。  しかし、上履きの音は遠ざかっていく。今更、僕から謝るつもりもなかったので、僕はその上履きの音が聞こえなくなるまで、目を閉じてしゃがんでいた。  僕の人生の一番の黒歴史。  だけど、その後、普通に話していたから、仲直りはしたんだと思う。  ただ、確実に言えるのは僕からは謝ってないということ。僕はそんな可愛げのある僕じゃなかった。  もし、僕に思いやりと可愛げがあれば今よりは少しだけ、沖野との関係も変わったのかもしれない。  そう思うと、時々、暴れ出したいほどやるせなくなる。  しかも、いい大人がそれを引きずって「誰々が嫌い」とか我ながら、痛いことだと思う。
/26ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加