おかえり、沖野

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 僕と沖野 里との思い出はいつも雨だ。 初めて会ったのも夏前で、雨が降っているのに、やたらと明るい雨の日だった。  僕は中学入学時からずっと、美術部に入ろうと思っていた。周りはバカにするけど、短い学生生活を考えると、それが僕にとって一番合っていることのような気がした。  それに、学年一チビで、のろまな僕にできることはない。  だから、美術室までわざわざ走っていくのは僕くらい。  勢いよく美術室の戸を開ける。  すると、先客がいた。窓の側に女の子。しかも、天体望遠鏡を覗いていた。  真っ黒でまっすぐな髪。ふっくらとした頬。その肌は向こうが透けるんじゃないかと思うほど白い。  彼女はゆっくりとこちらに首を向けた。何の表情もなく、感情というものが見られない。人形のようなその動きに、僕はぞっとした。  けれど、美術室という聖域を誰にも譲りたくはない。 「あの。美術部員の人ですか?」  勇気をもって出したその声は、みっともないことに、震えていた。  彼女は何の抑揚もない声で、 「いいえ」  と言った。  僕はその声にさらに震えあがる。けれど、意志疎通ができ、襲いかかってこないだけで、わずかな勇気が芽生えた。 「なら、どうしてここにいるんですか?」 「星を見ようと思って。」  少女はそう言って、また望遠鏡を覗いた。  僕はつられて空を見上げる。しかし、そこには厚い雲。 「今日、雨だけど」 「雲の向こうに雨はないわ。だから、見ようと思って。」  ダメだ。会話が成り立たない。  僕は幽霊とは違う感じで、彼女を気味悪く思った。 「やぁ。揃っているね。たった二人の美術部員さん。」  後ろから声をかけられて、振り向くと眼鏡をかけた中年の先生がいた。  中村豊先生はでっぷりとした腹をさすりながら、のしのしと中に入ってきた。ネクタイを締めたシャツのボタンがお腹で今にもはち切れそうだ。 「先生、こんにちは。」  少女は望遠鏡をほっぽりだし、こちらに駆けてくる。 「こんにちは、沖野さん。星の調子はどうだい?」 「はい。今日は雨なので、よく見えませんでした。」  と彼女は明朗快活に言った。 「それみたことか。」と僕は冷ややかな視線を送る。先生はそれを見て「ほっほほ。」とサンタのような笑い方をした。 「個性豊かで結構。ようこそ。柴田くん。沖野さん。今日からの活動を楽しもうね。」  先生はそう言って、僕たちそれぞれの肩に手を置いた。 「さぁさぁ。では、お互いに自己紹介と行こうか。」  大きな手に促されて僕たちは向かいあう。  そして、先生が僕に微笑んだ。  レディー・ファーストってことね。 「一年四組の柴田時折です。」 「好きなものはなんだい?」  先生が聞いた。 「絵を描くことです。」  以上で終わった僕の自己紹介に、先生は小さく拍手をする。 「それでは、次は君だね。」 「一年二組の沖野 里です。」 「君の夢はなんだい?」  彼の大きな手は彼女の細い肩の大半を覆っていた。彼女はその手をじっと見て、わずかに微笑んで言う。 「夢は宇宙飛行士になることです。」  僕はその微笑みに、不覚にも恋をした。
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