おかえり、沖野

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 だけど、人は一度生まれたわだかまりは、そうそう消せはしないようだ。  夢にでてきた黒田はニヤニヤ笑っている。  しかも、僕が一番嫌いだった中学2年の頃だ。  サッカーをしているくせに、ツヤツヤの茶色い髪に、真っ白な肌。女の子とまではいかないが、中性的でさわやかそうな見た目はそこそこ受けがよく、鼻持ちならないやつだった。さらに、ちょっとサッカーができるからといって、運動が苦手な男子や、ちょっとふくよかな女子を見つけてはからかうところが、解せなかった。 「柴田さー。美術室で沖野と二人で何してんだ?」  あの時の、にやついた顔は一生忘れない。背筋が寒くなる笑顔なんてあれ以来見たことない。  それは真夏の日差しが照り付けるプール授業の日だった。  日差しがあまりにも強くて、水面にギラギラと反射しては、僕たちの目をするどく刺す。  それでも、僕たちはこの時期だけの特別な授業に心躍らせていた。  だから、油断していたのだと思う。  突然、クラスの女子が倒れたのだ。  真夏の空の下、彼女の顔色は真っ青だった。 「熱中症かもしれない。先生が保健室まで運ぶから、お前たちはここにいろ。  絶対に、プールには入るなよ!」  男性の担任は大声を上げると、ひょいと倒れた女子を抱きかかえて、プールから姿を消した。  あとに、残された生徒たちは特にできることもなく、ただ座っておしゃべりを楽しんでいた。  だから、その黒田の問いかけに誰もが耳を傾けた。  僕は彼が美術部の活動内容を問いかけているわけではないと、すぐにわかった。わかってしまったからこそ、戸惑ってしまう。 「べ、べつに。なんでも」 「べ、べつに。なんでも・・・・・・  だってさ!ほんとかなー?」  バカにしたようにオウム返しをされて、はらわたが一瞬にして煮えくり返る。けど、そんなことより、この場は質問の意図がわからない。とシラを切り通す方が断然、懸命であったのに、それを即座に判断できなかった自分にも腹が立った。  案の定、黒田のおふざけに何人かの男子が乗ってきた。 「おいおい。柴田。お前それじゃ、あるって言っているようなもんだろ。」  黒田の取り巻きである堀口は前歯を舐めながら、茶化すように言う。 「それに、男と女が二人っきりなんだぞ。そんなの怪しいに決まってるよなー。」  誰に問いかけるでもない、石井の言葉のせいで、クラス全体がざわついた。今まで僕に見向きもしなかったようなやつらまで、興味深そうにこちらを見ている。  僕は沖野の反応が怖くて、彼女を見ることができなかった。  2年では、彼女とクラスが一緒になったのだ。  彼女は青い空をぼんやり見上げていた。 「なぁー、正直に言えって。」  僕は、僕の肩を捕えようと伸ばされた黒田の腕をかいくぐり、プールの淵に逃げた。  同時にしまったと思う。ここでは後がない。 「お願い!お願い! 柴田。ほんとのことを教えてくれよ。  お前がチュッチュしてること、ここだけの秘密にするから。」  石川がわざとらしく、キスするように唇を突き出し、手を組み合わせる。その様子を見た、クラスがどっと笑った。  怒りで顔がほてる。  そして、それは黒田たちのからかいにますますの、火をつけた。  周りを見渡しても、僕の味方はどこにもいない。沖野は唯一の仲間だと思ったが、彼女はまだ眠そうにぼーっと空を見ている。  こんな時に何やってんだよ! 「そろそろ本当のこと言えって!」  黒田の期待のまなざしには、真実ではなく、僕がこのあとどう困惑し、どう振舞うのかギリギリのところを求めている節があった。  それまるで虫の手足を引きちぎり、その経過を見てみたいという残虐な欲求のようだ。  しかも、それが対3人となると相当分が悪い。僕は、回避する得策を思いつかないまま、プール際まで追いこまれてしまった。  僕は泳げない。 「なぁ!どうなんだよ。」  石井が声を荒げた。  どうやら僕は黒田たちがお気に召すコメディアンにはなれなかったようだ。僕に残されたことはただ一つ。ここに落ちて笑われる道化になるだけ。  人は意外にテレビに影響さている。しかも、中学生になるとその箱の中の人間関係まで理解できるようになる。  そうした時におこるのが、自分が学校という箱の中で、どの位置にいるか。 「おい!聞いてんのか!」  黒田がそう叫んだとき、足が宙を浮いた。  僕はプールに落ちていた。  運悪くその位置はプールでも水深の深いところだった。まだその頃、クラスでもぶっちぎりのちびだった僕は、足がついて顔も出せるのだが、水が入ってくる位置に口があったため。大量の水を飲んだ。  そこからはパニック。  手足をばたつかせて、顔を上げようとするが、そういうのは特によくない。浮力の反動で沈んでしまうからだ。しかも、怯えているために手足が縮こまり、思うように水面に顔がだせない。  しかし、その様子はクラスからは大うけだった。焦る頭とは反対に、笑い声だけがしっかり耳に入ってくる。よほど滑稽で面白かったのだろう。溺れているという事実に誰も感心がない。  死を覚悟した瞬間だった。  その時、真横で波しぶきが上がった。誰かが、僕の隣に飛び込んだのだ。次の瞬間にはお腹を両腕で抱きしめられ、一瞬だけ顔が水面からでた。 「ぷはっ!」  けれど、ほんの一瞬だけでは僕のパニックを抑えることができなかった。僕はあろうことか、助かりたい一心で、僕を助けてくれた人にしがみついたのだ。すると、非力なその人は一瞬で沈んでしまった。  この時の僕の愚かさと言ったらなかった。せっかく助けてもらったのに、その子を下敷きにしながら、またしても溺れ始めたのだから。さすがにまずいと思ったのか、遠くに女子の悲鳴が聞こえる。  ところが、そこはさすがだった。水の中に潜ったその子は潜ったまま、少しずつ、少しずつ、僕をプールの縁まで押してくれたのだ。  そして、ようやく、へりに手がついた僕は慌ててしがみつき、水面から顔を出した。空気が肺に流れ込み、大きく咽せたが、徐々に落ち着きを取り戻して行った。そして、パニックがひとしきり落ち着いたころで、とんでもないことをしてしまった。と血の気が引いた。
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