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第1章*雪の記憶 旅客者
ギィ、ギィ、と黒い鎖に吊るされた、木製の古ぼけた看板が揺れている。
看板には『白薔薇』と表記されており、文字の横には薔薇の彫刻がしてある。
趣のあると……言えなくは、ない。
けれどもこの店の店主であるカレン――アタシはこの看板を変えるつもりは一切なく、誇りさえ抱いている。
この街の、この店がアタシの誇れるものだからだ。
風が強く、厚い雲の流れるのが速い。
扉の札をOPENにして風に誘われるように空を見上げると、ちょうど声をかけられた。
「よう、カレン。今日は雪が降るぞ」
「ああ、降りそうだなと思ってたんだ。レイが言うなら間違いないね」
にんまりと笑う彼は隣に住んでいる大工の棟梁でレイといった。
店の常連でもある彼は店が開くが早いかアタシと共に入ってくる。
「ちょっと飲みに来るには早いんじゃないかい?」
「かたいこと言うなよ。今日は母ちゃんに子ども等も後から来るんだ」
「まぁいいけどね、アタシは。踊りも見るのかい?それならテーブルを移動しなきゃだね」
「そうそう。だから手伝いに来たんだよ」
広くもない店内にはいくつかのテーブルがあるが、家族で座れるような大きなテーブルは無く、レイの家族5人分の席を確保するにはセッティングをいじる必要がある。
それを見越して来てくれたらしい。
飲み屋に子どもを連れてくるなんて、なんて無粋なことは言わない。
この街の住人はみんな家族みたいなもんだ。
誰もがどの家の子供か知っている。
もちろん、飲み屋が嫌いだという子供も、子供を受け入れない店もあるだろう。
だけどアタシの店は至って健全だし、従業員のジェイムズが作るご飯は美味しい。
主婦にだってたまには息抜きが必要だとくれば、飲み屋でなくて定食屋として使ってくれるのだって構わない。
店の扉から正面に当たる位置にある少しだけ床の高いその空間がステージだ。
小脇には簡素な椅子と、大昔の演奏家が置土産にして行ったギター。
この街では演奏を生業にしているものがおらず、ちょうど先月まで居た演奏家も流れ者だった。
この街は港町だから、旅客者も少なくなく、たまに日銭稼ぎで演奏を買って出てくれる者がいる。
彼もそんな一人だったが、2週間ほど滞在して、次の街へ行くとこの街を去っていった。
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