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【開戦の日】から数えで約九年と半年。戦役歴十年、四月。統合防衛軍東アジア支部有明基地。
齢十七の御先光志は、宿舎の屋上で空を観望する稲葉空梨に会った。別れの朝であった。
光志には、【開戦の日】以前の記憶が無い。誰の下に生まれ、どう育てられたのか、一切の記録も無い。そんな彼にとっては、開戦後の避難生活を共にしてきた仲間こそが家族であった。
故に、最も長い間寝食を共にしてきた空梨が、遠い海の彼方へ去ることを告げられたとき、茫然自失として言葉が出なかった。
空梨は、統合防衛軍北米支部にある搭乗型幻霊装騎の訓練機関=【トップガン】へ移籍するのである。そこで彼女は専用騎を与えられ、過酷な戦闘訓練を受けることになる。
思念適性値が十万を超える者は搭乗型幻霊装騎の操縦能力を有するとされており、空梨の思念適性値はその基準を大きく超えていたのだ。
世界でトップクラスの思念適性を持つということは、あらゆる出力霊体と思念接続可能であることを示し、それは同時に、あらゆる幻霊装騎を操縦できること意味する。
悪魔と戦うことに意義を見出す現代の人類が最も求める、高適性パイロット。それに選ばれることは世界的な誉であり、兵士たちの憧れでもある。
それでも、光志にとって空梨は、群を抜く高適性パイロットである前に、人類の救世主と称される希望である前に、最も大切な家族であった。
故に、喜んで祝福することができなかった。
だが、それは空梨も同じであったのだろう。
光志は、空梨の白い小顔に不安と憂いの如き影が差すのを見た。
「……っ」
空梨が出しかけた言葉を呑み込み、上目で光志を見つめる。この一年間で逞しい戦士へと成長した少女に、避難民だった頃のか細い面影が、一瞬だけ戻ったように見えた。
「そんな顔するなよ、空梨。しばらく会えなくなるけど、僕はこっちで頑張るから!」
シルクのような白い肌に高く通った鼻筋、薄い唇といった、どちらかといえば西洋寄りの顔立ちの光志が眉宇を引き締めて頷くと、空梨が徐に一歩踏み出し、彼をそっと抱きしめた。
霞みを孕む青空の下。光志の中で、空梨と過ごした様々な記憶が蘇り、込み上げたものが二重の黒目から溢れそうになる。それを見られまいとして、光志は彼女を強く抱きしめ返す。
聖水に浸したかの如く白銀に煌めく髪と、滑らかな白い肌。清らかな光を湛える青藍の瞳。彫刻の如く整った鼻。時折、小さな口で天使のように笑う彼女の顔が見られなくなる事実を、光志はやっとの思いで頭の片隅に押しやる。
やるべきは祝うことなのだ。南米に続いてメキシコも陥落した今、激戦が予想される北米支部への移籍は、空梨の思念適正が群を抜いており、それが高く期待されている証なのだから。
「――少し、このままでいてもいい?」
と、光志の腕の中で空梨が言った。一番耳に馴染んだ、柔らかくも芯のある声が、このときばかりは少し震えているように感じられた。
「うん。向こうに行っても、風邪引くなよ?」
「気をつける。光くんもね?」
光志の視界がぼやける。黙って頷く。
「――毎週、メール送るから」
「わたしも、向こうのきれいな景色送るね」
会話で別れを惜しむ時間を、頭上を通過した無人戦闘機の轟音が遮り、二人同時に屈む。
「うわッ⁉ な、なんだよ、心臓止まるかと思った……」
「びっくりした! ……もぉ、ただの哨戒ならもっと高く飛んでもいいのに!」
そうして同時に笑い合う二人の眼には、同じ涙が滲んでいた。
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