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宣言通り、レオンは明後日の朝に出立した。
アイリーンを連れていくため、馬車を用意してもらい、レオンが手綱を引いて嘆きの森へと馬を走らせた。
レオンの住むヴァンケの城下町から嘆きの森までの距離は半日もかからない。幾分急いだためか、日は真上にも差し掛かっていなかった。
嘆きの森の入口で馬車を木に繋ぎとめる。森の中は馬車が入れるような大きさの道ではないため、そこからはレオンとアイリーンは徒歩で進むしかない。
森の中へと足を踏み入れる。森の中は高い木々に囲まれ、日中だというのに太陽の光が僅かに木々の隙間から差し込む程度で、暗がりが広がる。そして、周囲の木々が見せる幹の形状がどれも人の泣け叫ぶ顔に見えてしまう。それは、ここが「嘆きの森」と呼ばれる所以であった。
鬱蒼と茂った道を歩くレオン達。レオンは幾度も修羅場を超えた戦士と言う事もあり、馴れた様子で道を歩いていくが、アイリーンは不気味さで今にも逃げ出しそうな衝動に駆られていた。だが、それをかき消す魔法が彼女にかかっていた。
彼女の片手は、レオンの手と繋がり、強く握りあっていた。
それがあれば、ここがどんな死地であろうと彼女は関係なかった。
草木を掻き分け進んでいくレオン。
ただ、彼は闇雲に進んでいるわけではなかった。
鋭い洞察力で、最近人が通っていた道を探り当て、その道を辿って進んでいく。そうやって幾らか進んでいった時であった。
「見てレオン、光が見える!」
アイリーンが指さす。その方向には森の中ではありえないぐらいの光の量があふれていた。まるで出口のように。
思わず走り出そうとするアイリーンだが、レオンはそれを制止する。
レオンの注意力は今までの比ではないほど慎重になり、アイリーンを庇う形でその光へと進む。
光の差す場所へ出ると、そこは一面木々が伐採されていた。
平野を思わせる程ひらけた広い空間。奥に、木材だけで建てられた小屋が見えた。その小屋に接近する前に、あたかもレオン達が来たのを分かったかのように小屋の扉が開いた。
中から出てきたのは紫色のローブを羽織、フードを頭から目深にかぶり、樫の木の杖を手にした男。その手は水分を失ったようにひび割れ、骨と皮だけの手だった。
フードの隙間から見える顔立ちに、レオンは微かに見覚えがあった。
「グリムか? 随分と老けたな」
フードの男はレオンの悪態に、肩を震わせながら笑う。
「そういうお前は、エルメスの横にいた小僧か。6年前の事は昨日の事のように覚えておるぞ。貴様とエルメスには随分と辛酸をなめさせられたものだ」
枯れた声が響く。その言葉には並々ならぬ怒りを滲ませていた。
「自業自得だろ。聞いたぞ、あの出来事の張本人なんだとな? あの世で死んだ王と、民に詫びるんだな」
アイリーンと繋いでいた手を離し、手にした槍を一度振り回し、穂先をグリムに向ける。
「戯言を。王を殺したのは貴様らだろう。あのまま続けばこの大陸全土は戦火に焼かれ、全ての民は飢えと死に蝕まれ、その後全てを治めるのは私だった筈……いや、私だったのだ! それを貴様らのせいで全て台無しだ!」
「そりゃよかった。多くの命が救われ、お前もこうして罪を犯した罰を受ける。願ったり叶ったりとはこの事だな」
「黙れ小僧! 私は諦めていない。再び戦争を始め、次こそはこの世を支配する! そして、その手筈も既に整っておる!」
「またお得意の策略か? あのエドワードとリオが引っかかるとは思えないが?」
「策など必要ない。私には既に最強の切り札がある。貴様も随分と腕が立つが、そんな貴様とて「こいつ」の前では児戯に等しい」
ぴくり、とレオンの眉が動く。
グリムは小屋に目を向け、来い、と声で合図を送る。
小屋から一人の人影が見える。そして、小屋から出てきた人間に、レオンは覚えがあった。
夜のような漆黒の長い髪を翻し、女神のような造形の顔立ち。
身軽さを重宝するため、黒い薄着に上から胴体のみ金属の板で包み込む。腕は白い肌を晒し、それは陶器のような美しさ。
目を奪われるほどの美しい女の手には、愛用していた紅蓮の槍が握られていた。
腰に手を当て、レオンの顔を見ると口元が三日月のように歪む。
「久しぶりだな、馬鹿弟子。よもやこうして会う事が出来るとは夢にも思わなかったぞ」
「俺もまさか今になって会う事になるとは思わなかったぜ、師匠」
ある程度覚悟はしていたが、実際目にしたレオンは内心驚いていた。
目の前にはあの戦争当時を彷彿させる凛々しい姿のエルメスが立っているのだから。
「体の方は良いのかよ?」
「ああ。グリムの魔力によって生かされている以外はな」
「やっぱりそういう事か」
戦時の時、グリムは兵士を操る事ができる魔法があった。
それを使用すれば、もしかしたら死人も操る事が出来るのではないか? という推測をレオンは立てており、その嫌な推測は見事に的中してしまった。
「ふぇふぇ、我が魔力によってこやつの体はあの戦争当時の肉体まで蘇っておる。そして、ワシを倒せば、こやつは直ぐに死に絶える。生きるにはワシの言う事を聞く以外にないのじゃ」
「なるほど。悪趣味な野郎が考える事は、一味違うな」
「何とでも言え。先日、騎士団の連中がワシを殺しに来たが、エルメスによってあっという間に返り討ちにあったわ。お前も、同じように……いや、お前は確実にトドメを刺させてもらう」
「恨まれてるなあ、俺。師匠は見逃してくれないの?」
「生憎、私もこうして生き返ったのだから存分に生を味わうつもりだ。お前を見逃せば、あっという間に墓へと逆戻りだろう」
「そういう事じゃ。さぁ、エルメス、自身の弟子を八つ裂きにしろ!」
エルメスがレオンの方へと歩いていく。
ゆっくりと優雅に。まるで舞踏会へと続く道を歩いていくように。
近づいてくるエルメスに、レオンの槍を握る手が強くなり、後ろのアイリーンに下がるよう手で指示をする。そして、その後ろのアイリーンはレオンの指示に従い、下がろうとする。
だが、アイリーンの脳裏に何かが引っかかっていた。
目の前に居る女性。初めて見るのに、初めてではない感じ。どこかで、会った事がある。
靄(もや)がかかり、それを思い出せずにいた。
少しの距離を空けてレオンと対峙するエルメスは、ゆっくりと紅蓮の槍を構えるエルメス。
味方の時はあれほど頼りになる槍が、いざ向けられるとレオンは生きた心地がしなかった。
(敵もこんな気持ちだったんだろうな……)
呼吸を整え、真っすぐにエルメスだけを見る。
緊迫した空気が、二人の間に流れる。グリムも、アイリーンもその戦いを見届ける。
しばし、見つめ合う二人。
「どうした? 来ないのか弟子よ?」
「一応、こういうのは年上に譲った方が良いかと思ってな」
「そうか。なら、遠慮なく行くぞ!」
穂先がぴくりと動いたと思った瞬間、それは既にレオンの眼前に迫っていた。その鋭い突きを、レオンは顔を逸らして紙一重で避ける。
槍は突いた場合、それを手繰り寄せ、戻すまでの隙がある。だが、そんなものはエルメスに存在しない。突いた時点でその穂先は手元に戻っており、今度は槍を大きく振りかぶり、薙ぎ払う。それをレオンは同じく薙ぎ払うと、互いの槍がかち合い、強烈な衝撃の波が周囲に広がり、強風となってアイリーンとグリムを襲う。
かち合った槍は衝撃で大きくのけぞり、二人は態勢が大きく崩れる。
くっ! とお互いの口から苦悶の声。それと同時に、二人は縦横無尽に動き回り、相手の槍をよけながら攻防を繰り広げる。
その動きは鏡合わせのように息が合い、どちらも一撃も入れる事のない攻防が続く。
激しい攻防はアイリーンの目にはまるで追いついていなかった。一撃繰り出したかと思えばそれは既に数秒遅れ。二手、三手先に戦いは移行している。
ただ、ひたすら傍観するしかないアイリーン。だが、相手の女性の顔を見続けていると、次第に頭の靄は薄れていき、やがて、それは浮かび上がる。
その間にレオンとエルメスの尽きぬ攻防に変化がみられる。
互角の攻防を繰り広げていた時、エルメスの放った突きがレオンの頬を掠める。それをキッカケにお互いが大きく後方に離れる。
掠めた頬をレオンは指で触ると、微かに血が滲み出ていた。
「何だよ、師匠は死んでも修行してるのか?」
「お前の腕が落ちただけだ。私が死んで大方訓練もさぼっていただろ」
「否定はしない」
軽口をたたき合う二人。だが、緊張は未だに解けてはいない。
「良いぞ、良いぞ! さすがは戦乙女エルメス! 貴様を倒す者などこの世におらぬ! そいつを殺せばワシの覇道を妨げるものは何一つない!」
グリムは両手を大きく広げ、嬉々とした大声をあげる。その様子を、エルメスは肩を大きく上下させるほどの溜息を吐く。
そんな最中、アイリーンは二人に近づくと。
「ねえさん? もしかして、エル姉さん?」
恐る恐るアイリーンがエルメスに訊ねる。エルメスの視線はアイリーンに移ると、その目の色は見る見るうちに変わっていく。
「アイ……リーン? アイリーンなの?」
「そうだ! やっぱりエル姉さんだ!」
口を手で覆い、歓喜の涙を目に浮かべるアイリーン。
信じられない再会だった。アイリーンは行方不明で、もう二度と会えないと思っていた姉がこうして目の前に現れたのだから。
今にもアイリーンはエルメスに駆け寄りたい衝動に駆られるが、その進行方向にレオンの槍が妨害し、アイリーンを制止させる。
「アイリーン。悪いが、まだ感動の再会ってわけじゃない」
「そこの小僧の言う通りだ。なんだ、戦乙女と呼ばれるお前に血を分けた妹がいたのか、ええぞ、そやつは生かしておこう。お前を縛る餌になる」
ふぇふぇ、と汚い笑いが聞こえる。その言葉に、一瞬、眉根を寄せるエルメス。
「なぁ、グリム。俺から一つ提案がある」
「なんじゃ? 小僧」
「今手合わせして分かったが、正直俺は師匠には勝てそうもない。だから、せめて最後の頼みと言ってはなんだが、この二人に少しの間会話をさせてやってもらえないか?」
「何を馬鹿な、そんな事……」
「グリム、私からも頼む。引き換えに、お前の覇権を約束しよう」
思いがけないエルメスからの頼み。グリムもこのエルメスがいなければ計画が成り立たない。
エルメスを利用し、そのカリスマから仲間を募り反乱を企て、そして王国を手中に収める。
――この小僧さえ倒せば、あとはどうとでもなる……ならば
グリムはその提案を受け入れる事にした。
「良かろう。ワシとて最後の別れを告げさせるだけの情はある」
「悪いな。初めて鬼畜外道のお前に感謝を覚えるぜ」
「小僧……貴様の死体はバラバラにして犬にでも食わせておく」
グリムの鬼気迫る言葉に、レオンはハイハイ、と受け流すと、進行方向を妨げていた槍を外す。
アイリーンはエルメスに駆け寄り、その胸に飛び込んだ。
「姉さん! 会いたかった! 本当に……ずっと会いたかった!」
「私もだ、アイリーン。この時を、ずっと夢にみていた」
「姉さん、どうして私を置いていったの? 寂しかった!」
「許してくれとは言わない。あの時、戦火に焼かれる最中で私は神と契約を交わした。この戦を終わらせるまでの条件として、寿命を代償に。そして、お前を庇いながら戦場を駆け抜ける力は私に無かった」
二人の目に涙が浮かぶ。
感動の再会をレオンは黙って眺めていた。その胸中にはある思いが満たされていた。
それはレオンが生きているエルメスから聞いた最後の言葉であり、願いだった。
”――妹に会いたい”
その願いは残念ながら生きている間に果たされることはなかった。
果たせず終えたその願いは、数奇な運命を巡り今日この場で叶えられる。
「悪いな師匠……あの日の約束から四年かかっちまった」
レオンが呟くと、エルメスは大粒の涙を流しながらレオンへと顔を向ける。
「馬鹿者……!」
罵倒はレオンに対する賛辞と感謝であった。
それを理解しているレオンは、軽い笑みを見せた。
一分程度の短い時間、エルメスとアイリーンは抱き合う。
それは二人にとって長い空白の時間を埋める、短くとも永遠ともとれる抱擁だった。
エルメスはアイリーンを手から解き放ち、レオンの方に体を向ける。
「もう、良いのか師匠? 別れの挨拶は」
「ああ。もう思い残すことは本当に無くなった――殺せ、レオン」
無防備に立つエルメスに、激怒したのはグリムだった。
「エルメス! どういうことだ! 話が違うぞ!」
「すまないな。これ以上、生に執着する必要も無くなってしまったからな」
「貴様……まさか、妹に会うためだけに私の言う事を聞いていたと?」
「だとしたらどうする?」
みるみるとグリムの表情が豹変し、見るからに激高していた。
「もう良い! 貴様らまとめてこのワシの魔法で灰にして――」
両手を合わせ、魔法の詠唱を唱えようとするグリムの体が一瞬大きく揺れる。
自分の左胸に異物感。それを確認するため、ゆっくりと顔を動かすと、それは的確に、そして無情な現実がそこにあった。
自身の心臓を経由し、背中にまで蒼い槍が深々と突き刺さっており、遠く離れた場所には、今正に投擲をおこなった姿勢のレオンが立っていた。
「こ……ぞう!」
左胸の槍をグリムが掴むと、口から赤い吐瀉物が吐き出され、両膝を地面につけるとそのまま前のめりに倒れる。
しばしの痙攣の後、ピクリともグリムは動かなくなった。
「俺は師匠には勝てないと言ったが、お前には勝てないとは言ってないぜ?」
既に亡骸となったグリムに、レオンの言葉は届いてはいないだろう。
あっという間の出来事だった。
全ての張本人たるグリムは死に、そして目の前には生き返ったエルメス。全てが最高の形で終わろうとした。
だが、そんな都合の良い話は無かった。
エルメスの体が指の先から光となっていく。後数分もすれば、エルメスの体は全て光となってしまうだろう。光となって消える前のエルメスに近寄るアイリーン。そして、レオンもエルメスの最後を見届ける為に近寄る。
「ふむ、グリムの言っていたことは本当だったか。奴が死ねば、私も死ぬというのは」
「姉さん! エル姉さん!」
「アイリーン、達者で。私は貴女の姉として失格だった」
「そんなことない、姉さんは私にとって何よりもかけがえのない姉さんです」
二人はもう一度抱き合い、最後の別れをする。
「あー、師匠。一つ話がある」
「話? なんだ、今頃になって」
「好きな女が出来た」
きょとん、と目が点になるエルメス。
「その女性はさ、奥手で、気が弱い。師匠とはまるで正反対な性格だ。最初の頃は義理で助け船を出してたんだけどさ、会ったり、話したりしてる間に気が付いたら好きになってた。昨日も、夕飯をご馳走になったよ。今じゃ師匠と同じぐらい……それ以上に大事な人なんだ」
それが誰の事を指しているか、エルメスは直ぐに分かった。
何故なら、隣にいる女性が涙と共に、笑顔を見せていたからだ。
「そんな話を私にしてどうする?」
「今、この場で認めて欲しいんだよ、その女との結婚を」
「れ、レオン! 結婚だなんて!」
「嫌か? アイリーン?」
首を左右に何度も振るアイリーン。
「そんなわけない。嬉しい、本当に嬉しいよレオン」
「というわけだ。認めてくれないか? アイリーンの実の姉として、俺の師匠として」
ふふ、とエルメスは微笑する。
生き返った最初はろくでもない事になったとエルメスは内心思ったが、今ではグリムに感謝すら覚えていた。このような出来事を迎えられるのだから。
「弟子よ……いや、レオン! お前は私の妹を幸せにできるのか?」
「してみせるさ。一人の男として、そして、あんたの弟子として」
「アイリーン良いのか? こんな不肖の弟子で」
「良いんですエル姉さん。いえ、レオンでないと嫌なんです」
二人の気持ちを聞いたエルメスは大声で笑った。
高らかに、そして気持ちよさそうに満面の笑みを浮かべて。レオンもそんな屈託のない笑顔のエルメスを見たのは初めての気がした。
「良い、良い! 今日は人生最後にして最良の日だ! 去り行く私にとってこれ以上ない餞だ!」
「師匠!」
「エル姉さん!」
「最後と言っては何だが、誓いのキスを見せて欲しい。見届けたいんだ、お前たちを」
そのエルメスの願いに、二人は応える。
互いに正面から見つめ合い、二人は瞳を閉じると、その顔が重なりあう。
満足だった。
目の前にある、その光景を忘れぬよう瞼に焼き付ける。
今から死ぬというのに、エルメスの心はとても晴れやかで清々しいものであった。
レオンとアイリーンは合わさっていた唇を離し、見つめ合った。
そして、エルメスの方を向くと、既にエルメスの姿は無かった。
まるで、幻のように跡形もなく。
途端に、アイリーンは嗚咽混じりに泣き崩れ、それをレオンは抱きしめる。
エルメスはもうこの世にはいない。
本当に最後の、永遠の別れが訪れた。
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