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あのひと
「もし、もし、あなたはなぜこんなところに?」
「わたしはあの男を愛していました。たぶんこの穴よりも、ずっと深く」
それは女性の想念でした。
「でもね、穴がすこし深すぎたのかもしれないわ、あの男にとっては……」
自分自身に答えるように、女性は言葉をつぎました。
「穴が深すぎると、本当の穴に入れておきたくなるの?」
私は女性に問いかけました。
「そうね、わたしにもよくわからない。でも現にわたしは今ここにいて、あの男は行ってしまった。それでもわたしはね、今でも彼に会いたくてたまらないのよ」
私と女性はそれから、しずかにそれぞれの想念の世界へと入っていきました。さっきシャベルで傷つけられた足が冷たく痛む、でもそれはもしかしたら、女性の心の痛みかもしれません。私にはよく区別がつかない、なんといっても私たちは今、ほとんど一心同体なのですから。
そんな事をつらつらと想いながら気が付けば雪は溶け、川は流れ魚たちが戻ってきました。まるで枯れ果てているかのようだった私の枝も、やわらかい緑の葉で覆われていきます。女性の存在はわかりませんが、想念はまだ感じる事ができます。そこにはあの男の人のイメージがあり、二人が複雑に絡み合っているさまが伝わってくるのです。
さらにしばらく経つと、体じゅうがむずむずしてきました。いよいよ私の花がひらくのです。咲き出すやいなや、人がたくさん押し寄せることでしょう。それはいつもそうなのですから。私は女性の想念に呼びかけました。
「もし、私はもうじき花をつけます。そうすると人がたくさん来ますから、あなたが会いたい男の人も来るかもしれませんね」
「そうね。あの男来るかしら。わたしに会いにここへ」
女性の言葉は儚く寂しげで、なんだか可哀想な気がして、私はあの男が来るといいのにと強く思いました。
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