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路地裏にて
その年は、例年に増して残暑の厳しい年だった。もう9月も半ばを過ぎたというのに、そして時間はすでに4時を過ぎ、日も傾いてきたというのに、アスファルトに蓄えられた熱気が、スーツに身を包んだ俺にもったりとまとわりついて離れない。汗で背中に張り付いたシャツの感触が不快だ。
朝シャワーを浴びた後整髪料できっちりと整えた髪もいまは乱れ、やや長めの前髪が目にかかってうっとうしい。一日じゅう足を棒のようにして歩いたが、今日も契約は取れなかった。
こういう仕事が向いていない事は自分にもよくわかっている。だが妻と2歳の息子、そして老母という扶養家族を抱える自分に、贅沢を言う権利などない。そこには何の希望もないが、人生など所詮こんな物だろう。
アタッシュケースを提げ重い足をひきずりながら、会社への近道である路地裏に入る。おそらく戦前からの焼け残りであろう古い長屋が並ぶその通りは、俺のお気に入りでもあった。古ぼけて時が止まったかような家々を見ていると、何とも言えず懐かしくあたたかく、日々の憂鬱が少し軽くなる気がした。
「ああーっ!」
とつぜん頭上から叫び声が聞こえ驚いて上を見ると、何かが降ってきて地面に落ち、同時に右肩に激痛が走った。思わずその場にしゃがみ込み肩を押さえる。
「ごめんね!大丈夫?」
オバサンが二階の窓から顔を出している。
「ちょっと待ってて、いま行くから」
そのまま肩をさすっていると、家から出てきたオバサンが駆け寄ってきた。テレビで見る占い師みたいなベールを被り厚化粧、つんとする香水の匂いが湿気と熱気と混ざり、むせるほど強烈だ。
「手がすべって落としちゃったのよ、ごめんねえ。怪我はない?」
「あ、いえ……」
見ると、植木鉢のような物が割れて欠片が散らばっている。おいおい、下手したら脳天直撃じゃないか。あぶないなあ……。
「大丈夫です、ちょっと掠っただけですから」
しかし肩はズキズキと痛み、スーツには擦りあとによる汚れが付いていた。
「あらスーツが大変!ちょっと上がってってよ、汚れだけでもすぐ落とさないとまずいわよこれ」
「いや、そんな大した、」
「いいからいいからちょっとほら、ほらすぐだから!」
口ベタで気の弱い俺は押しの強いオバサンに言われ断れず、言われるがままオバサンについて家に上がった。
「とりあえずお茶でも飲んでゆっくりしてて。ジャケットこちらにちょうだい、汚れ落としするから」
「あ、いや、そんな」
「いいから、ほら」
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