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Prelude #20 In C-Minor
それはショパン24の前奏曲と呼ばれるシリーズのひとつで、人々はその曲に葬送の列を想起する。最も沈痛であり、一方ではあらゆるショパンの曲たちの中でも低難度のとされる。
が、難易度が低ければ、そのぶん表現力が求められる。当たり前のことだ。
もちろん、安姫が紡ぎあげるのは壮絶なまでの悲しさ。あるいは寒さであり、孤独、とすら言っていい。
気付かずにはおれない。それは――在りし日の、安姫の孤独。
曲そのものは、きわめて短い。ゆっくりと弾いても2分に届くかどうか、でしかない。だから、あたしがそれに気付いたときにはもう、曲は終わっていた。
立ち上がろうとするあたしを、安姫は片手で制する。それから、再び同じ曲を弾き始めた。今度は、歌を伴って。
凍えるような風
厚き雲は空を覆い
月ははかなく 寂しく照る
哀しき遠吠えの響く夜
その目に留まる景色は
終焉を迎えた後のもの
なおも行かねばならぬ
拭いがたき罪とともに
些細なる宝に目がくらみ
終焉の痛みを身に刻めど
なおも行かねばならぬ
拭いがたき罪とともに
はるか水平の彼方より
届けられたるは一握の砂
この先に希望はあろうか
救いを求むは許されようか
本来の歌詞は全編英語で、これは後日安姫なりに意訳したものを聞いた感じだ。
「これ、歌なんてあったっけ?」
「いろいろ動画探してたらね。アングラ、ってバンドがカヴァーしてたの。カヴァーだし、ぎりぎりショパンつながりってことで」
いたずらっぽく笑う安姫だったが、その笑顔も、間もなく曇る。
「ねえ、枡美。私、ずっと考えてたんだ」
「あたしのこと?」
「うん」
素直か。
とはいえ顔つきを見るに、おいそれと茶々を入れてもいいものでもないらしい。なんとか上体を起こし、身体そのものを安姫に向け、もう一口だけ水を飲んでから、目だけで、先を促す。
ごくり、安姫がつばを飲んだのがわかった。
「どうして、ピアノをやめたんだろう。なんで私をおいてったんだろう。悲しかったし、悔しかった。恨んだりもした」
「うん」
「けど、それよりも大きかったのは、自分が何をしたかわからないことだった。わからないまま、どこかで枡美を傷つけて、それに気付かないで無神経にじゃれて、甘えてた自分が怖くなって、ぞっとしたの」
鍵盤を丁寧に拭き上げ、フタを閉める。
「さっきの歌、どうしてかわからないけど、やけに響いてきてさ。それでバンドのこと調べたんだけど――響くはずだよね。あの歌も、やっぱり別れがその背景にあったんだ。デビューからずっと一緒に連れ添ってきた仲間と道を違えて、一度は解散まで考えて。けど、アングラは復活したの。新しい仲間たちとともに」
「そうなんだ」
余計なコメントは挟まない。いま、安姫は心のフタを開けようとしてる。それがどれだけ重いものなのかはわからない。けど、受け止めるべきだ。それだけはわかる。
ぽろり、安姫の瞳から、涙が落ちる。
「あ、やだな、まだなんにも言えてないのに」
「いいよ」
「――うん」
少しの間、流れるがままにしてやる。
二度、三度と鼻をすする。
「私が何をすべきか。よりはっきりと、より美しく、内なる音を響かせること。そこに迷いはなかったよ。けど、足取りが重かった。たどり着きたいところに、どれだけ進めてるんだろう。無性に怖くなってね、気付けば歌ってたんだ。何度歌ったかわからない。歌えば歌うほど枡美の顔が浮かんできて、けど、だんだんわかんなくなってっちゃった。枡美って、どんな顔で笑うんだっけ、って」
体の調子を確かめる。
うん、もう少しで動ける。
ひどいもんだ、さっきまで極上の踊りを見せてた子が、なんて小さく、なんてみじめな顔になってるんだ。
「枡美に会いたくて、枡美の声が聞きたくてさ。けど私は、枡美を追い詰めた張本人なんだ。だから、会えない。甘えられない。なら、弾くしかなかった。おかげで私の指は、思い描くタッチを、その理想を、形にできるようにはなったよ。でも、違ったんだ。そこには彩りがなくて、温もりもなくて、凍てついた音しか、自分の中から出せなくなってて、……ッ」
募り、積もった想いってやつは、どうしてこう、喉をふさいでくるんだろう。
あたしはなんとか立ち上がり、安姫の隣にまで歩み寄った。親を見失い、顔という顔をぐしゅぐしゅにした子犬が見上げてくる。あんまりにもあんまりだ。噴き出しそうになったが、ここは我慢、我慢だ。
その代わり、
「安姫」
「ん?」
思いっきり、デコピンを決めてやる。
「った! ちょっと、ひどい!」
「なーにが! ひどいはこっちのセリフよ! 一人で悟っちゃった面して、ぜんぶ自分が悪いって? 冗談!」
「! っな、いくら安姫でも――」
「違うでしょ! 謝んなきゃいけないのはあたし! なんであんたまで抱え込まなきゃいけなかったのよ!」
よし、ようやく言えた。
けど、ダメだ。こんなこと言い出して、まともに安姫の顔も見れる気がしない。あたしはこれ幸いと、最敬礼もびっくりな勢いで頭を下げる。
「ごめんね、安姫はなんにも悪くなかったのに! あたしが本音に気づけてなかったせいで、苦しい思いさせちゃったよね」
顔を上げなくてもわかる。話の展開について来れず、安姫がアワアワしてる。
「え、えっと、あの――枡美、本音って?」
「あたしが安姫と、安姫のピアノが大好きだ、ってこと」
ここまで言っちゃったんだ。死なばもろとも、なるようになれ、だ。あたしが顔を上げれば、目の前には茹でだこが一匹。ざまあみろだ――って、多分あたしも負けないくらいの顔になってるだろうけど。
「あんたときたら、すぐ暴走して、譜面にない音加えちゃったりしてさ。それで何度先生に怒られたことか。自由すぎんのよ」
「え、だって、そのほうが楽しくて……」
「それでなんて言われたっけ? それやりたいならコンクールじゃなくて?」
「……コンサート」
「だよね?」
いまさら、実にいまさらなのだ。
それであたしが、譜面にある音じゃなく、安姫の出した音の方に引っ張られすぎちゃったのも。そんな自分が怖くなって、努めて譜面の再現にばかり意識を注いだのも。
「ったく。あんたったら、ひとの気も知らないで、すぐコンサート始めちゃってさ。あたしがそれ聞いて、どう感じてたと思う? 苛立ってたのよ、気づけなかったせいで」
「気づけない、って?」
「――何度も言わせないでよ」
思わず、そっぽを向いてしまう。
正面では、泣いた子犬がもう笑った。
あーーー、もう!
「いい、安姫? あたし以上に、あんたの音をより咲かせられるやつなんていない。そのために学んできたし、これからも学ぶ。もう迷わない。けど、気付くまでにかかった時間で、どれだけあんたを苦しめたんだか」
それを口にしただけで、悔し涙がこぼれそうになる。安姫の大事な時間を、あたしは一体どれだけ損ねてしまったんだろう。
なら。
ここから、全力で支える。
支えられるように、なる。
と、安姫が立ち上がった。
「もう、ずるいよ。枡美ばっかり」
言って、あたしを抱きしめてきた。
「おっひょ!?」
「なにそれ」
くすくす、と、吐息が耳をくすぐる。
「ずっとね、思ってたんだ。枡美に甘えっぱなしだったんだな、って。そのバチがあたったんだって。ステージの上じゃ、いつでも私は一人。いつまでも頼ってちゃいけないはずなのに」
「そんなこと……」
あるけど、と言いかけて、黙り込む。それが心地よかっただなんて、口が裂けても言えない。
「だからね、頑張ったよ。強くなったし、うまくもなった。きっと、私にも必要な時間だったんだ」
「――そっか」
抱きしめ返し、もう片方の手で、頑張ったね、と頭をなでてやる。へへー、となんだか自慢げなのには軽くイラっときたが。
「じゃ、こっから先はビシバシ行っても良さそうだね?」
「ぇぐっ!?」
露骨に安姫の体がこわばった。強くはどーした。
腕を少し緩め、真正面から顔をのぞき込む。化粧もクソもない感じの顔が引きつってる。あたしはニヤリと笑うと、コツン、と安姫と額を合わせた。
「大丈夫。あんたは最強だよ」
テラスに差し込む初夏の日差しは、あたしたちをまばゆく包み込む。
あたしたちは、何だってできる。
何だってできるんだ。
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