くすぐったいなぁ、もう。

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くすぐったいなぁ、もう。

寝耳に水、ってやつだ。 安姫から飛んできたメッセージを前に、あたしは思わずスットンキョーな声を上げる。で、すぐに通話をつなげた。 「ちょっ、安姫! 留学延期ってどういうこと!?」 「えっと、それがね――」 「あーもう! すぐ行く! 近くにいるし!」 何やら慌ただしい言葉がスマホの向こうから聞こえたが、知ったこっちゃない。タクシーを捕まえ、安姫の家に乗り込む。広永先生夫妻へのあいさつもそこそこに、あたしは安姫の部屋に向かう。 「安姫ぃ!」 「わひゃいっ!」 勢いのまま部屋のドアを開けた先にいるのは、おそれおおくも下着姿の安姫だった。一瞬にして網膜に焼き付けたあと、あたしはすぐさまドアを閉める。あわてたそぶりを取り繕うのも忘れない。 「あ、っごごご、ごめんっ!」 「ホントよ、もうっ!」 がさごそとした衣ずれの音のあと、改めて、ゆっくりとドアが開く。その向こうからは薄手のショールをかけ、そして、ずいぶんくろぐろとなった安姫の顔があらわれた。 「えっ、どうしたのそれ」 「――日焼け止め」 おずおずと言い出す安姫の姿を、ついうっかり上から下までなめ回すように見つめてしまった。安姫はすかさず片手でその身をかばいつつも、もう片方の手ではあたしを部屋に引き込んでくる。 「ぬ、塗り忘れちゃってたの、こないだ、日焼け止め! そしたらこんなんなっちゃって……」 改めて安姫を見る。 顔はまだいい。やばいのは肩から腕にかけてだ。なにせさんざんおひさまの下でピアノを弾き倒したのだ。日焼けどころか、ぺろり、と皮が剥けてさえいる。 「えぇー……小学生かっつーの……」 「やめてぇえええ!」 こないだよりもよっぽど悲愴な顔で安姫が泣きわめいた。いや、あたしのソデつかんでジタバタされたところで状況は変わんないだろーに。 「えっと、理由って、ウィーンの先生も知ってんの?」 「むしろ、先生が仰ってくださったのよ。レディにとっては一大事だ、移動は落ち着いてからでいいよって――半笑いで」 そりゃ笑うわ。 少しの間、安姫の中ではいろいろ忙しなかったみたいだ。なにやらぶつぶつ言いながら、こっちに恨みがましい目を向けてきたりもする。まー、こちとらどこぞのうっかりお嬢さんとは違い、そのあたりの対策は万全である。確かにあの日、少し肌が火照ったりもしたが、そのくらい。 ややあって広永先生の奥様、つまり安姫のお母さんからおやつとお茶の差し入れがもたらされる。 「お騒がせしちゃってごめんなさいね、ほんとこの子ったら、枡美ちゃん無しでウィーンなんて大丈夫なのかしら……」 「そうですね、あたしも心配です」 「そこは否定してぇええ!」 安姫の悲鳴を背景に、あたしたちのため息は見事に一致する。いっそお母様とのほうがコンビネーションいいんじゃないか、とすら思う。 「ただ、せっかくできた時間だものね。安姫のお相手、もう少しだけ頼まれてくれるかしら?」 「はい、承りました」 「なんでそんな事務的なのおぉおお!」 あーうるさい。 まぁ、お母様が作られるお菓子は絶品なので、それのご相伴にあずかれるのはラッキーではある。すっかり引っ越しの準備が整い、やや殺風景になった部屋を、軽く見回した。 「ねー安姫、時々部屋のピアノ弾かせてもらいに来ていい?」 「――好きにして」 しんでる。 ベッドに突っ伏し、腕を投げ出して。試しにその手にクッキーを持たせてみると口の中に吸い込まれていったから、ノックアウトにまでは至ってないらしい。 コリコリと音が聞こえ、また腕がだらりと落ちてくる。 それを見て、あたしはゴクリ、とつばを飲む。 「ね、ねぇ」 その声に不穏なものを感じたか、安姫がのろのろと顔を上げた。 「な、なに? 改まって」 「む、剥いていい? 皮」 「はぁ!?」 あたしと、腕。交互に見たあと、安姫の目はまるであたしをエイリアンが何かのように認識してた。うん、わかる。 「えっ、ちょっと待って、枡美、普通にキモいんだけど」 「わかってる。けどさ、こんなバカなこと、金輪際できないと思わない?」 「う、それは、まぁ……」 それからしばらく、腕が謎のダンスを披露した挙げ句、突然糸が切れたかのように、だらりと落ちた。 「ま、いいや。好きにして」 「りょーかい」 普段は日焼けと縁遠い安姫の肌、お人形みたい、と思ってた肌が、ささくれとかでガサガサになってる。不思議なもんだ、っていうか、無駄にエロい。 ささくれの端っこをつまみ、引っ張る。ピリピリという音が聞こえてきそうだ。 「っちょ、くすぐったいなぁ、もう」 「我慢して」 ぷつ、と破けてしまった。1センチ四方くらいの大きさだ。湯葉みたいって一瞬思ったが、さすがに食べ物に例えるのはいろいろアレだな、と思う。 もう一度。今度は、はじめの3倍くらいで切り出してやるのだ。また複数か所を順繰りで剥がしてく。「なんでそんな真剣なの」って安姫が笑うのをこらえてるが、知ったこっちゃない。 そして、ついに。 ぴりり、ぴっ。 「――っしゃあっ! どうじゃいな!」 謎の興奮が謎の訛りをあたしにもたらすわけだが、いっぽうでそんなあたしを安姫は謎の笑顔で祝福するわけだ。 「おめでとー。で、それ、どうすんの?」 「え? 捨てるよ、撮ってから」 「いや待って!? 何するつもり!?」 「そりゃ見せるっしょ、みんなに。スクープ! これが広永安姫の剥がしたての生皮!」 「やーめーてー……」 「やだな、冗談だってば」 「枡美のは冗談に聞こえないから!」 笑いながら、ふとあたしの脳裏に変なものがかすめる。 皮を捨てるふりをして、一部については密かにズボンのポケットに突っ込むのだ。 あとで、そいつをロケットの中に入れる。そうすればあたしは、いつも安姫の近くにいる。 戦ってきなよ、安姫。 あたしも、隣で戦ってるからね。 げんなり顔の安姫の頬を突っつきながら、あたしは静かに決意を固める。 二年の留学と、ショパン・コンクール。安姫は、格段の飛躍を遂げて帰ってくるだろう。なら、あたしもそいつを受け止められるようになってなきゃならない。 安姫の輝きはきっと、舞台が大きくなればなるほど、はっきりしてくる。そいつを間近で見届ける喜び、他のやつになんか譲ってやるもんか。 あたしたちは、ふたりでショパン。 やがて、世界の度肝を抜いてやるのだ。
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