488人が本棚に入れています
本棚に追加
イーグルテイル
とりあえず、まだ学生の私は土日にイーグルテイルで働くことになった。開店前、いつもは丸っこい帽子をかぶっている鷲尾さんの髪を初めて見た。
「ぐりぐりですね。パーマですか?」
私は聞いた。
「天パです」
「触ってもいいですか?」
「いいですよ」
「男の人の髪、初めて触ります。わっ、柔らかい」
ふわふわなのに柔らかい。というか、生きているから温かい。
鷲尾さんが最初に教えてくれたのはお店の掃除と片づけ。それくらいならできそう。店の周辺やトイレも時間を見つけてはお掃除。
開店は8時。
「おはようございます」
と言うお客さんもいれば、無言でカウンターに座り新聞を開く人もいる。
「いらっしゃいませ」
数分で、店はコーヒーの匂いに包まれる。パンの香り、紅茶の匂い。モーニングはお皿にパンとスクランブルエッグ、付け合わせのサラダにコーヒー付きで500円。二杯目のコーヒーは100円。そんなわけで、みんながくつろぐ。外から見ると不思議な店だが、中は平凡で窓が小さいから外が見づらい。お菓子の家のイメージなのだろうか。
カフェって時間の経過が不思議。忙しいときは息つく暇もない。お客さんがいないときはすることがない。掃除やテーブルの小瓶の補充を繰り返す。
そして、休憩もない。
「鷲尾さん、働きづめですね」
半日足らずで私のふくらはぎは限界。
「だから夜の営業はやめたんです。きっかり6時まで」
鷲尾さんが言った。
「ちょうど夕飯時なのに?」
「いいんです。そんなに働いたら死んでしまいます」
私にはお昼過ぎにオムライスを作ってくれたが、自分はなにも食べていない。立ちっぱなしだし、重労働。トイレにも行かない。
「絵麻さん、いつから一緒に暮らします?」
ランチの慌ただしさから抜け出せたときに皿を洗いながら鷲尾さんが聞いて来た。
「私たち、一緒に暮らすんですか?」
「結婚するんだから。いや、単に夜送るのが面倒なだけですけど」
「大丈夫ですよ。アパート、すぐそこですから」
「奥さんになる人だからそういうわけにいきません」
そういうものか。結婚て、もっと盛り上がってするものだと思っていた。こんなに冷静でいいのだろうか。恋が実らなくて自死する人はいても、人を好きな気持ちが苦しくて死ぬ人は実際にはいない。
「いらっしゃいませ」
お客さんが来て、会話も中途半端なまま。
夕方から混み始め、甲高い女の子の笑い声に耳を塞いだ。元気がいいことと人に迷惑をかけることは別もの。こっち側になってみて初めて気づくこと。
私の好きなフルーツサンドがどの時間でも注文が入る。お昼にもなるしおやつにもなる。鷲尾さんはナイフをこまめに拭く。クリームがついてしまってきれいな断面にならないからだ。きれい。パンを置いて生クリームを塗って、真ん中にフルーツを並べる。パンを重ねてカットする。いつか私もその断面を想像しながらあれを作ることができるのだろうか。さいころの展開図とはまた違う。
「絵麻さん、そんなに凝視して食べたいんですか?」
結婚するからっていきなり絵麻さん呼びに変わった。まだ照れ臭そうに笑う。
「違いますよ。断面がきれいだなって思って」
確かにおいしそう。
「慣れですよ。半分に切るから、キウイをこう置いたらちょうど真ん中でカットできるって想像して」
「全然わからない」
想像力もないのだ、私は。
「あとで教えますね。これ、2番テーブルにお願いします」
「はい」
配膳と皿洗いを繰り返す。お皿やカップは白で統一されている。洗う、拭く。
まだできる仕事が少なくて申し訳ない。
鷲尾さんは話しかければお客さんと話すけれど、こちらから話しかけることはしない。スマホを見る人ばかりで、画集を開く人は少ない。でも稀に、
「この前、仏像の展覧会に行ってきたんですよ」
と写真を見せてくれる人がいる。
悪い人がいない空間だった。ずるい人ってどこにでもいると思っていた。大学にすら、人を蹴落とすことが当たり前みたいな人がいた。自分の能力を上げることよりも、他人の傑作を運ぶふりして傷つける。なぜ、そうなってしまうのだろう。おかしいって思わなくなってしまうのだろう。
「絵麻さん、コーヒーどうぞ」
鷲尾さんが淹れたてをくれた。
「いいの? 私ばっかりサボってる」
「香りを発すると注文が増えるんです」
「なるほど」
最近やっとブラックコーヒーが飲めるようになった。おいしい。鷲尾さんのコーヒーはきりっとする。
「疲れませんか?」
鷲尾さんが聞く。
「全然。楽しいです」
「若いからかな。立ちっぱなしだと疲れるからこまめにこっそり休んで」
「はい」
スケッチブックを持った女の子が入ってきた。大きなバッグ、奇抜な髪型、きっと同じ大学の後輩だろう。鷲尾さんは絵具で汚れたつなぎを気にしたりしない。髪にまで絵具がついて乾いてしまっている。私だったらもう切ってしまう。
女の子が口も塞がすに大きな欠伸をした。夕方の5時にハンバーグプレートを注文する彼女はきっと夜型なのだろう。私はよほど集中しないと夜に作業はしない。のめり込んで抜け出せなくなってしまうから。その感覚を幾度か味わった。きっとあっち側に行ってしまったらそれはそれで楽なのだろう。でも私はゴッホじゃない。凡人だから、妻になる。
もう彼女のように一心不乱にごはんをかき込んで絵に勤しむということが私にはないだろう。鷲尾さんが作ったものなら尚更、きれいにおいしく食べたい。
「ふう、お疲れさま」
と息を吐いて、鷲尾さんは本当に6時に店を閉めた。最後のお客さんを見送ったのが6時14分。冬だから真っ暗。小さな窓には小さなカーテンがついていて、それを閉めながら星が見えた。その時間から丹念に掃除をするから、夕飯を食べたのは8時前。
店の奥が鷲尾さんの家だった。一階はリビングと水回りだけらしい。店も新しそうだし、家もきれい。これを新築で建てたならローンがあるのだろうか。結婚するからってそこまで根掘り葉掘り聞けない。お金のことって話さなければいけないような気がするが、どうしてもだめ。人間性が出てしまう。卑しいって思ってしまう私は結婚に不向きなのだろうか。
「絵麻さん、店のハンバーグでよかったんですか?」
私のリクエストに鷲尾さんが応じてくれる。キッチンもきれいにしてある。ダイニングのテーブルでハンバーグを食べる。
「はい、食べてみたかったんです。おいしい」
絵描きだろう彼女が無心で腹を満たしただけのハンバーグ。糧になっただろうか。私はそれを食べたことがなかった。
「どうですか? チーズ乗せます? 大根おろし?」
「ううん。このままで充分おいしいです。すごいジューシー、さすがプロ」
俵型をふたつと少しのピラフ。鷲尾さんはごはんと高野豆腐とスープ。そんなのであの仕事量がカバーできるのだろうか。
「すぐに飽きますよ。結婚したら普通の夕飯がいいな。絵麻さん料理は?」
と聞かれた。
「煮物とかなら」
「食べてみたいな」
と笑った鷲尾さんの顔が信用できない。
「結婚相手、本当に私でいいんですか? 取り柄も特徴もない」
「僕はいいですよ。絵麻さんが嫌ならすぐにでも断ってください」
そう言いくるめられても困る。料理はおいしいし、一緒に後片付けをするのは楽しいし、ちゃんと家まで送ってくれる。
「おやすみなさい」
と言い合って、キスもしない。星がきれいだったら指をさして笑い合う。
鷲尾さんと一緒にいると胸がぽかぽかする。寒い日のホッカイロみたいな。これが恋なのだろうか。お風呂に入るとそのぽかぽかは消えてしまった。気のせい? 気の迷い?
その一日、絵は描かなかった。そういう日が私には稀だ。きちんとキャンバスに向かうことだけが絵を描くことじゃない。なにげなく息を吐きながらいらない紙の端に描くこともある。
恋をしたら描けなくなるのではないだろうか。私は、乗り越えるということが苦手だ。抱えるか放置することしかできない。そのぽかぽかは放置しても心の中で靄になったりしない。たまに思い出して、はっとする。そう、おじいちゃんみたい。
平日、私は大学に行った。もう卒業式を待つだけで4年生はほとんど来ず、閑散としている。
「結婚することになった」
学食で友達と落ち合って私は報告した。似たような人間でつるむものだ。友達は女の子のみ。外見ではなくてあぶれたものが集まった。しっかり者の真紅、ちゃっかり自分だけ就職を決めていたミチザネ、名前が望なのでぱっつん前髪のぼうちゃん。
「は?」
真紅の反応は正しい。
「なんで? 絵麻、彼氏いなかったよね?」
ミチザネは好物のラーメンをすすっている。
「それは逃避ぞよ」
ぼうちゃんが鋭い目で確信をつく。
「それに近いかも」
私はカフェオレを飲んだ。
「相手はどんな人? 何歳?」
真紅は興味津々だ。
「普通の人だよ。カフェやってるからこの前から手伝ってるの。年齢は聞いてないけど、そこそこ上かな」
鷲尾さんは落ち着いているし、頼りがいもある。鷲尾さんを思い浮かべると顔がにやけてしまう。
「まあ、いいんじゃない? 絵麻、就職決まってないんだし」
ミチザネは建築会社で働くらしい。
「おめでとうぞよ」
「ありがとう、ぼうちゃん」
ぼうちゃんと真紅はバイトをしながら創作を続けるらしい。ぼうちゃんはイラストが上手だからそういう仕事を既に受けているし、真紅は要領がいいから適当なバイトをしながらでも生きていけるだろう。生き方がうまい人っている。お金が必要だから短期のリゾートバイトをするっていう思考が私にはない。貯めたお金を使ってしまったらまた働く。ああ、だから真紅の絵は優雅なのかもしれない。
「今はお試し期間なので、ちゃんと決まったらまた報告するね」
私は言った。
「そうして。早速だけど、卒業式終わったら私、離島で働くから。働いて、きれいな魚の絵描くんだ」
真紅が親子丼を食べながら言った。
「戻り予定は?」
ミチザネが聞く。
「決めてない」
この歳でいろいろ決めてしまうほうがおかしいのだ。
まだ寒いのに、外にたむろっているのはきっと下級生。美大は年齢がまちまちだ。私たちはたまたま同じ年で、たまたま気が合った。こんなに仲良くなったのに離れてしまうことが確定している。
鷲尾さんとはどうなのだろう。縁を信じすぎてはいけない。結婚は一生離れない約束のようなものだろうか。
「絵麻、困ったことがあったら連絡するぞよ」
ぼうちゃんは子どもみたいな顔なのに、勉強も一番できて考え方はまとも。語尾はずっと謎のまま。
「うん」
確かに、結婚する前にこの中の誰かに鷲尾さんと会ってもらいたい気もする。私の目は節穴だ。自信がある。人を見ずに絵ばかりを、絵に描く対象物ばかりを見て生きてきた。
芝生の上を木枯らしに黄色のストールが飛んでいる。写真に撮って描く人もいるし、記憶する人もいる。この楽しい空間から私はもうすぐいなくなるのだ。
何者でもない私が学生でもなくなる。妻の肩書が有難いと言ったら鷲尾さんに申し訳ない。
帰りに鷲尾さんの店に行ったら激混みだった。
「鷲尾さん、連絡くださいよ。それ私運びます」
手を洗いながら私は言った。
「うん、ごめん」
「謝ってないで、私が片づけるので鷲尾さんは調理とコーヒーに集中」
「はい」
まだレジ操作を覚えられていない自分が恨めしい。この季節の行列は風が吹くたびに申し訳ない気持ちになる。入り口部分は広くないので、そんなに待たせられない。
諦めて帰ってくれるとほっとするような、利益にもならないから勿体ないような。さすがに6時には閉められず、最後のお客さんが帰ったのは夜7時半を過ぎていた。
「どうしてこんなことに?」
山のような皿を洗いながら私は聞いた。
「芸能人がこっそり来ていたようなんです。疎くてどの人なのかもわからないのですが、うちのカップが特定されて拡散されて」
怯えるように鷲尾さんが答えた。
「怖い世の中ですね」
イーグルテイルのカップは白いだけでロゴもない。どうして特定ができるのだろう。ちらっと映った椅子とか窓だろうか。もう気色悪い。でも私もゴッホやミレーが生きていたら会いに行って絵を描いているところを見たいと思うのかもしれない。憧れの気持ちもまた人それぞれだ。
「全くです」
鷲尾さんがやっとため息をついてくれた。
「でもお店に来てくれるだけいいですよね。儲かりました?」
「どうでしょう? 表の写真だけ撮る人も多かった」
鷲尾さんが椅子に座る。
「やっぱり。あ、鷲尾さん膀胱炎気をつけてください。私、なったことあるんです。激痛ですよ」
「ははっ」
と笑った顔にほっとした。鷲尾さんは丸顔で、整っている人の顔をぺにょっと横に伸ばしたような面構えだ。悪くない。笑うとかわいい。すっとした目元をたまに冷たく感じる。
疲れてあまり食べたくないと言うので、冷凍うどんでカルボナーラを作った。卵も粉チーズもちょうどある。
「お店をしているといつでも食材があって便利ですね」
私は言った。私はあまり買い置きをしないので、創作に没頭してしまうといつも飢えていた。空気が食べ物だったらいいなといつも考えた。
「うまい」
鷲尾さんが褒めてくれるのはお世辞でも嬉しい。
「お金と時間がないときはたいていこれを作ってました。私はたまごと牛乳は切らさないので。和風だしが隠し味です」
冷凍うどんはレンジで解凍して、フライパンだけで作れる時短料理。生パスタで作ったほうがおいしい。今度はそれを作ってあげよう。
「本当においしいけどメニューにしたら冷凍うどんを大量に買って置かないと。食材はほとんどネット注文なんです。果物だけ青果店に配達してもらってます」
鷲尾さんが会話に仕事を盛り込むから、メモメモ。
「コーヒー豆もネットで?」
「うん、あとで教える。絵麻さんは真面目だね」
「記憶力はいいのですが要領はよくないです。うっかりも多いほうです」
ロースターがあるけど焙煎しているのは見たことがない。休みの日にまとめてやるのだろうか。ちょうど夜にコーヒー豆が届いた。もう焙煎してあるものだった。コーヒー専門店から買っているようだ。まだ味の違いもわからない。濃いとか薄いならわかる。酸味もわからない。好きな味はある。
「火曜が店休なんだけど、絵麻さんの都合でいいのでデートしませんか?」
疲れた顔の鷲尾さんが言う。
「デート?」
「仕事をしているだけだとゆっくり会話もできないから。一緒に暮らせばそれも解消できるけどね」
「鷲尾さんはどうしてそんなに私と一緒に暮らしたいんですか?」
「お互いに楽でしょ? 早く素の絵麻さんが見たい」
素の私ってどんなだろう。朝起きて、寝るまで絵を描いている。ごはんを食べるのも忘れて、トイレに行くのも面倒で。そんなの晒せるはずがない。
「結婚しても本性を見せるとは限りませんよ」
私は箸を置いた。うどんに粉チーズを追加する。
「そうだね。でも寝ぐせは見える。そういうダメなところを見せ合って、許し合って夫婦になりたい」
その言葉がぐっときた。許されたことがあっただろうか。見限られていたから気にしなかった。許したこともあっただろうか。鷲尾さんの奥さんになったら私は幸せなのだろう。
そのためのデートか。
鷲尾さんに送ってもらいながら、明日が火曜であることに気づいた。
そのデートで失敗したら他の働くところを見つけよう。親に泣きついて実家に帰るもよし。
うん、決まった。さりとて、デートはどんな服を着るのだろう。こんなことで友達に深夜に電話をするのは間違っている気がする。どうしよう。ネットで調べようか。でも今日は私も瞼が重い。疲れたときは眠るに限る。
結婚をするのだから好みがわかるようにいつもの服装で行った。黒ニットは絵具で汚れてもバレないため、紫のバルーンスカートはお気に入り。歩きやすいぺたんこ靴。
駅で待ち合わせるのも初めて。鷲尾さんの私服はちょっとどきっとした。素敵だ。といっても、コートしか見えていない。茶色い靴、初めて見る。
「お待たせしました」
私が頭を下げると彼も会釈をした。店以外で会うとこんなにもぎこちない。
「待ってないですよ、全然」
私が160センチだから鷲尾さんは170ないくらいだろうか。身長の高い低いで人を好きなる人もいるらしいが、どうしてなのか聞きたい。すれ違ったカップルが手をつないでいた。手はいつつなぐのだろう。心が通じてからだろうか。いろいろ考えてしまって履き慣れた靴なのに躓いてしまう。
カフェに入って鷲尾さんが今日のデートプランを提案する。これならば鷲尾さんの店で落ち合えばよかったのではないだろうか。
鷲尾さんがコーヒーを口に含む。最初はこくっと。次はごくっと。他店の味もこの人には勉強なんだな。私は、鷲尾さんの店のコーヒーのほうが好きだなと思うだけ。
「映画はどうですか?」
考えあぐねる鷲尾さんに私はスマホを見せた。
「絵麻さん、好きなんですか?」
「まあ、デートですし」
「このまま、ずっと話し合ってもいいですけどね」
向かい合って座っているだけなのに、いつもより緊張する。
「デートって初めてです。普通はどうするものなのですか?」
私は言った。
「嘘ですよね?」
「本当です。おかしいですか?」
「おかしいというか、びっくりしています。絵麻さん、かわいいし」
「私のように決めちゃう人って一定数いると思いますよ。絵描きとして生きてゆくからそれ以外はどうでもいいって。だから鷲尾さん、絵描きで生きていけないとわかって絶望していた私にプロポーズしてくださってありがとうございます。お仕事もがんばります」
本当に絶妙なタイミングだった。鷲尾さんの申し出がなければ、あの晩にでも私は実家に電話をしていただろう。地元で非正規の学芸員になっていたかもしれない。私はコーヒーにミルクを足して口に運んだ。
「美術館に行きますか?」
鷲尾さんが私の顔色を窺う。
「ごめんなさい。絵からは少し離れようと思って」
卒制を描き終えたとき、ぷちっと糸が切れた。あれはたぶん、情熱というものだ。体から情熱が蒸発すると、この体は途端に重い。それまでは軽くびっくりするほど丈夫で、腕は幾度でもパレットとキャンバスを行き来した。
「そうですか」
鷲尾さんがふうっと息を吐いた。
「鷲尾さんのせいでもお店のせいでもないですよ。描かない日が続いて、自分でも驚いています。それでも生きていけるんだなってわかって更にびっくりしているところです」
「結婚しても絵は続けていいですからね」
でもそれは趣味としてだ。私は、絵描きになりたかった。なるものだと思っていた。なれると信じて疑わなかった。急にその目的を失って、風船のようにふわふわしていた私をこの人は留めてくれた。あのままだったら、この青い空に吸い込まれていたかもしれない。
普通の人がデートを楽しむなら私もしたい。するべきだ。
映画を観て、お昼を食べて、買い物。またお茶を飲む。嫌な点はなかった。楽しい。もっと早くに知りたかった感情だ。多くの絵描きが恋愛のあれこれを経験済みなのだ。絵のモチーフにする画家もいた。学生時代に味わっていたら未来は違っていたのだろうか。
トイレで手を洗って、私のうしろを通り過ぎた女の人に目が行った。その人もデートなのだろう。私は、他人から見てデートをしているのだろうか。こんなこと、普通は考えないのかな。
付き合ってもいないから、悩んでしまうのだろうか。鷲尾さんからの質問の返答に悩むと、
「ゆっくりでいいよ」
と彼は言ってくれる。コーヒーがなくなると、
「おかわりする?」
と聞いてくれる。
「気が利く人って疲れませんか?」
と聞いてしまっていた。
「疲れないよ」
それから鷲尾さんはしばらく黙った。悩むような質問を私は投げてしまったのだろうか。
帰り道で手をつないだ。こういうこと、本当にするんだと他人事のようにてのひらのぬくもりを感じていた。寒いから手をつなぐのだろうか。嫌じゃない。嬉しいに恥ずかしいが加わったこの気持ちの単語を私は国語の授業で習っていない気がする。22年生きてきて、その半分以上で学校に通っているはずなのに。
鷲尾さんが部屋の前まで送ってくれた。夕日がきれい。
「ありがとうございました。楽しかったです」
嘘ではない。
「うん、また」
「はい」
お昼を食べたから夕飯までは一緒に取りたくないなんて、これで結婚ができるのだろうか。鷲尾さんは飄々としていて掴みどころがない。会話も、私に気を使ってくれていたように思う。悪い人ではないこと、もうわかっているつもりです。
私も気疲れしていた。冷蔵庫のプリンを食べて一息つく。
一緒に働いているときは気にならないんだけどな。結婚と仕事は別物なのかな。どうなの、おじいちゃん?
まだ友人と呼べる人で結婚をした人はいない。誰に相談したらいいのだろう。母親だろうか。そういう会話を避ける家族だった。私が絵ばかり描いていたせいもある。
テレビのお笑い番組がおもしろくて一人で笑ってしまった。鷲尾さんと一緒に見たかったな。
結婚したら一緒にずっと一緒にいることが当たり前なのだろうか。ぞっとする。人との付き合い方もまた学習してこなかったように思う。
明日も鷲尾さんのお店に行こう。やっぱりあそこにいる彼が嘘偽りない鷲尾さんのような気がする。
最初のコメントを投稿しよう!