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歩き出して五分ほどで、香りの主は見つかった。鯉のうろこのように規則正しい形をした瓦の並ぶ屋根、所々に染みのある年季の入った茶色い木の壁。烏の羽で染めたようにむらなく真っ黒に染められた布に大きく書かれた「お食事処 古川」の文字が颯爽と空へなびいている。のれんが風でめくられる度に、ほわんと食べ物の匂いが詰められた湯気が、店の前へと飛び出してくる。まるで日本昔話にでも出てきそうな古い民家だ。ぴゅうと風が目の前に吹くと同時に彩は、あの美味しさで満ちた素敵な香りを再び思い出した。あの香りの正体が知りたいという好奇心が全身で弾ける。彩は、いてもたってもいられなくなって、ささっとのれんをくぐった。
「いらっしゃいませ。こちらの席へどうぞ」
清流のようにしんと澄んだ声がした。前を見ると、しゃきっと背筋を伸ばし、柔らかい赤紫色の撫子の刺繍が入った割烹着を着た女性が、微笑んでいた。初雪のように白い肌、すらりと高い背、はんなりとした上品な優しさを含みながらも、芯の強さを象徴するように、しゅっとした顔立ち。
「すごい。本物の女将さんだ。」
ドラマや漫画で見たまんまの女将の存在が、彩の興奮をより一層高めた。はやくこの店のご飯が食べたい。そう強く感じた彩は、女将の呼ぶ方へ駆けて行った。
夕方になったばかりの店内には、観光客らしき人間が二、三人、ぽつぽつといるくらいだった。栗皮色のテーブル、見上げるとどこまでも高く広がる木の枠組みの天井。どことなく不思議な懐かしさが彩を包んでいた。
「ご注文は何になさいますか」
ことんと水を置きながら、女将が柔らかく首を傾げて、聞いた。彩は、ぐっと目を近づけて、お品書きを見た。飛騨牛のそば、ネギ味噌天ぷら、高山ラーメン。見るだけでよだれの出そうな食べ物が、彩の胃を刺激する。どうしよう、どれも美味しいだな。そう思いつつ、お品書きと睨めっこしていた時だった。
「五平餅、セット?」
本日の日替わり定食と同じくらい大きく書かれた文字が彩の目に入った。
「ええ、五平餅セットです。里芋の煮っ転がしでしょ、飛騨牛のステーキでしょ、赤蕪のお漬け物、ああ、五平餅もあったな。あっとは、何だっけ」
女将が、指を折り曲げながら言った。彩の脳内には、見たこともないような美しい食べ物で、並べられていく。それと同時に、胃が空っぽになっていく。
「ちょこちょこセット、お願いします!」
彩が、瞳をキラキラとさせ、叫んだのを女将は、くすりと笑い、去って行った。
黄昏時は終わりを告げて、一番星が淡く光っている。桜の花びらのように薄い雲がひらひらと空を舞っている。「なんて、贅沢な時間だろう」口元が緩むのを感じる。街の夕暮れに浸るように彩は、ぼんやりと店内を眺めた。
しばらくたった頃のことだ。
「お待たせしました。ちょこちょこセットです」
女将の声がすると同時に、立派な御膳にのった料理が、彩の目を奪う。
「わぁ」
思わず彩は、声を上げた。こんがりときつね色に焼けたネギの天ぷら、上品な色をした赤蕪のお漬け物、味噌に漬けられてほろほろと柔らかそうな飛騨牛のステーキと里芋の煮っ転がし。小判状の五平餅。彩は、ほうっとため息をつき、ひとしきり見つめると、写真も撮らずに、飛騨牛のステーキにかぶりついた。味噌のおかげか、牛肉が甘い。ほろほろと舌で柔らかく崩れていく舌触りが、彩の舌を癒す。伝統の中で培われた味は、この世のものとは、思えないように美しい味だった。これまでに経験したことのない美味しさを体験できたことが幸せで、彩は、両手を頬に当てて、瞳を閉じた。
街にも夜は訪れ、あちこちにある薄い和紙に絵が描かれた灯篭には火がほんのりと灯されている。川がいくつもの灯篭の焔を反射し、おぼろげに光る姿が夏の夜空に浮かぶ天の川のようだ。店の前に植えてある柳が夜風でさらさらと揺れた。
「明日からも頑張ろう」
彩の胸に、暖かく優しい風が吹いた。
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