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「ごめんなさい、気分じゃないので」
目を伏せたままそう答えると、チラシも受け取らず逃げるようにその場から離れた。
どこからか金木犀の香りがする。
この匂いは苦手だ。
むせ返るような甘くて強い香りは、遠い日の出来事を呼び起こしてしまう。
振り切るように歩く速度を上げ、昼間とは打って変わって人影の少なくなった通りを進む。
青年は一軒の居酒屋の前で足を止め、古めかしい引き戸を勢いよく開けた。焼き鳥の香ばしい匂いと炭火の煙は、金木犀の香りを一瞬で追い払ってくれる。自分の安全地帯を守るように、青年はすぐに引き戸をぴしゃりと閉めた。荒々しい物音に、カウンターの中に立つ若い店主がまな板から視線を上げ、青年の顔を見て片眉を上げる。
「陸、おかえり。お前、いつにも増して顔色が悪いなぁ。具合でも悪いのか?」
名前を呼ばれた青年は、首を横に振りながらふらふらと進み、カウンター席に腰を下ろす。
「何でもないよ。ただ……」
「ただ?」
「金木犀の匂いが嫌で」
その言葉に店主の表情が一瞬だけ曇ったが、それ以上は何も聞かずに瀬戸焼の小鉢を陸の目の前に置いた。
「今日のお通しは、お前の好きな白子のねぎポン酢。飲物はビールで良い?」
「うん。……ありがと、哲治」
この季節になると、十五の頃を思い出す。
乾いた空気と高い空。一ヵ月間だけ転入してきた、旅役者の男の子。
二度と書き換えられない残酷な記憶。
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