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プロローグ
『旅人』という言葉を、耳にしたことはあるだろうか。
それは一般に、『旅をしている人』を指して使う言葉だ。
さらにもっと詳細に言えば
『自らの所属する社会を離れて、別の社会への移動過程にある人』を指して、使う言葉でもある。
しかしながらこの言葉を、こんな風に(後者の様に)考えながら使う人は、おそらくいないだろう。
いなくて当然のことである。
このたった二文字の、見れば意味がすぐにわかる様な単語を、こんな風に考えて使う人がいること自体、そもそもおかしな話で、普通ではないのだから。
しかしながら旅人という者は、その二文字の単語ほど、今ではわかりやすい者ではないのかもしれない。
なぜなら今の旅人という者は、その人の見た目からはあまり、わからなかったりもするのだ。
それはどういう意味かというと、旅人は必ずしも、格好からして旅人というわけではないという意味だ。
旅人を旅人として認識するには、その旅人である者が、自ら誰かに、「私は旅をしています」と言う必要がある。
旅人はそれを言わない限り、誰かに自分が旅人であることを自己申告しない限り、その人は旅人として、他人からは存在はしていないのかもしれない。
逆に言えば、旅人ではない人を、旅人と他人が捉えてしまえば、例えそうじゃ無くともその人は、旅人として存在できてしまうのだ。
これでは誰しもが、そういう風にしてしまえば、旅人として存在できる様なモノである。
しかし実際のところは、そういうモノなのかもしれない。
今では昔と違い、様々な交通手段が普及したことで、誰しもが遠い距離の移動が容易になった。
車で道路を走ったり、電車で線路を辿ったり、飛行機で空を飛んだり、船で海を渡ったり。
遂には地球から離れて星々を巡るために、ロケットなんてモノも出て来てしまった。
それ故に旅人という者の存在は、やはり昔よりも希薄になってしまったのかもしれない。
今では旅人かそうでないかの見分けは、昔よりもつきにくく、分かりにくいモノになってしまった様に思える。
その昔は、ただひたすら歩きながら、町から町へ、街から街へと移動していたらしいので、きっとその姿を見れば、誰しもがすぐに、『この人は旅人である』と気付いたのだろう。
そんな時代の人間が、もし今の日本を見たらどう思うのだろうか。
便利になったと喜ぶのだろうか、それとも、味気がないと嘆くのだろうか。
どうせなら、聞いてみたいものである。
どうせなら、話してみたいものである。
今では旅のほとんどが、旅行という言葉に変わって使われている。
旅なんて言葉をわざわざ口にする人は、今ではそんなにいない。
それでも、どんな時代でも、それを行う人が必ず居たのなら、言葉は変わったとしても、それを行う人が居たのなら
人間と旅というモノは、切っても切れない様な、そんな関係なのだろう。
しかしながら、どんなに時間が経ったとしても、どんなに時代が流れたとしても、変わらずに人の傍にあるモノが、人の心の中に存在するモノが、たしかにある。
その中でも特に、人の心に長い間住み着いて、自覚したら離れない、そんな厄介なモノがある。
それはいわゆる、恋というモノだ。
それはいつの日も人を惑わし、魅了し、本来とは違う自分の姿すらも、その相手によってさらけ出されてしまうモノだ。
ただひたすらに、誰かを強く想い続ける感情だ。
そんな喜怒哀楽では説明がつかなくて、複雑で面倒臭くて、環境やタイミングとか、そんな目には見えている様な、見えていない様なモノに左右されやすくて、それでもその誰かのことを考えると、愛おしくてたまらない。
そんな感情なのだ。
さて、今回する御話は、そんな大事な2つを、人間として精一杯大切にしてきた、とある旅人の女の子の御話だ。
可憐で、純真無垢で、天真爛漫で、人としての姿を失ってまでもなお、誰かを想い続けることで、人とは言えない存在になってしまった彼女と、元からほとんど人間ではない、不死身なんていう馬鹿げた体質を相変わらず保有した異人である僕が、夏休みのほんの一時を、共に過ごした御話だ。
どうでもいいことで笑って、どうでもいいことで怒って、どうでもいいことではしゃいで、大切なことで泣いた。
そんなひとときの、かけがえのない思い出の、物語だ。
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