黄泉蛍

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黄泉蛍

対岸って言っても、随分遠くだぜ?精霊流しの舟…坊主のじいさんのいう黄泉蛍は、夕方に流したやつが、晩のうちにこの島近くの海まで流れてくるのさ。 この時期の海は、いつもの島の近海とは切り離されて、代わりに常世と繋がってる。常世ってのは、まあ、全部が曖昧な世界だよ。うっかり入ると戻ってこれずに常世を彷徨うことになるわけ。これが、海に入ってはいけない理由。常世の海は波がないのよ。常世の海の先は、現世。舟はそこから流れてくるのね。 坊主がひいばあさんの記憶をもらったの、そりゃ海に落ちたからだぜ。精霊流しを見たときはなんともなかっただろう。海閉めのとき、ご先祖さんは確かにくるよ。ただし火の玉じゃないぜ。常世の魚になって帰って来るんだ。これが、漁をしちゃいけない理由だ。ご先祖様を食っちまったら後味が悪いだろ。いい奴ばかりでなく、まあ悪い奴もたまにはいるだろう。ひいばあさんが坊主の頭に先に入って、守ってくれたんだな。 「舟はどこに行くの?」 「さあね。ここを過ぎた後は、俺も知らないな。途中で沈んじまうのか、どこかの陸地に流れ着くのか…ことによってはニライカナイに行くのかもね」 この島の住人も、死んだらニライカナイに行くと言われている。天国みたいな場所らしい。 「ところでさ、おっちゃんは、なにもの?なんで詳しいの」 「おっちゃんは貿易屋のおっちゃんよお。それで商売をやっているからさ。行商の連中はみんな知ってることよお」 おっちゃんが海の方を見た。波が光っている。その波より遠くに船が見える。 「お迎えの貿易船だよ。今回は大型だなあ。長旅になりそうだ」 見た目より遠いのか、貿易船はなかなか近づかない。おっちゃんは船を待つ間、商売に行った土地のことを話してくれた。本土のこと、常世のこと、大陸のこと。島の外のことなど、さして興味もなかった。意識がいかなかった、という方が正しい。島に何も不足はないし、満足していたのだ。それなのに、その話を聞いたらどうしても、知りたくなってしまったのだ。 貿易船は少しずつ近づいてくる。早く船が見たい。だが、あれが来たらおっちゃんは行ってしまうのだ。まだ、外の話が聞き足りなかった。他には、とか、それでどうしたの、とか、おいらは赤ん坊かと自分でも思うほどおっちゃんに話をせがんだ。 「そんなに知りたいならよお坊主、ついてくるかい?」 「いいの!?」 「冗談だ」 いよいよ船が港に入ってくると、漁船の何倍も大きくて背が高いのがわかった。あの腹の中に、どんな品物を抱え込んでいるのだろう。おっちゃんは浜へ出て、大きく手を振った。船の上の仲間も片手を上げて合図した。 「じゃな、坊主。達者でな」 おっちゃんの車は桟橋についた船に乗り込んだ。貿易船は車を載せるとすぐに行ってしまった。一晩くらい泊まっていけばいいのに。そうしたらおいらが島を案内したのに。 港で貿易船を見えなくなるまで眺めていた。その日は海に入らなかった。昼まで話していたおっちゃんは、もうずいぶん遠くに行ってしまっただろう。貿易船はまだ、海の途中だろうか。どこかの陸地に降りただろうか。返しそびれてぬるくなったラムネを飲み干して、瓶を夕陽に透かす。海閉めの夜の光のように、橙色の粒が瓶の中に散らばった。日が沈むと、それはただのガラスの瓶に戻った。
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