故郷

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故郷

貿易屋の前を通り過ぎる。現世の素材を使っているからか、建物の劣化が早い。前の店主は大工仕事ができたから、何度か修繕をしているようだ。外が眩し過ぎて暗く見える店の中で、若い店主が暇そうに店番をしている。その横顔が、無精髭のおっちゃんを思い出させた。 (おっちゃんと同じ顔してる…) 貿易屋のおっちゃんは、気まぐれに島の外のことを教えてくれた。あの日おっちゃんの車に乗らなければ、俺は今頃漁師になって父ちゃんの舟に乗っていただろう。貿易屋の人間は、代々変わった人間だった。五十年かそこらで入れ替わる貿易屋の中には、たまに変な噂がある者もいたが、島の住人にとって脅威ではなかった。鬼よりもずっと、人間は弱くて短命だからだ。おっちゃんは百歳くらいまでこの島にいて、ある夏いつものように仲間の貿易船で出て行ったきり、帰ってこない。おっちゃんはニライカナイに行ってしまったのだ。十年してからようやくそれに気づいた。今の店主もじきに老いて、最後は貿易船で旅立つのだ。それでも俺は、海の外を知る人間と仲良くなりたかった。 俺はおっちゃんがいなくなって二十回目の夏、新しい貿易屋の店主と入れ替わりで貿易船に乗った。しばらく貿易屋たちの手伝いをして、現世の適当なところで降ろしてもらった。そこは昭和という時代の終わりの方だった。 慣れた引き戸をガラガラと開けると家の懐かしい匂い。記念すべき十回目の帰省だ。鍵をかけるなんて習慣はないから、昔から来客が入り放題だ。 「たーだいまあ」 暗順応した目に、母ちゃんが出迎えてくれるのが見えた。 「おかえり、もっと早く来るって書いてあったのに。心配したよ!」 「ごめーん。手紙を送ってから、舟亀で帰ろっかなーって思い立っちゃって。暇だったあ」 「舟亀さん!?何日かかるのよ、まったく体力だけはあるのねえ。ひとまず上がりなね」 母ちゃんの顔を見たら安心した。本当のところ、亀さん帰宅は気が狂いそうだったのだ。 「葵〜、よお帰ったなあ。ほれほれ挨拶」 父ちゃんが見ていた。俺がのんびり帰る間に、先に漁から帰っていたらしい。腕を大きく広げて襲いかかるような格好をする。これは我が家恒例の… 「毎度飽きねえなあ、もうやんねえよ!俺いくつだと思ってんだよお、それよりみや」 「冷てえこと言うなよお〜」 逃げ遅れた母ちゃんごと、ニヤついた父ちゃんにもみくちゃにされた。アワビがバラバラ落ちた。父ちゃんがまったく衰えない腕力で手加減せず締め上げるから、船旅で錆びついた背骨がバキバキ鳴った。大の男二人に挟まれて、ちょっと歳食った母ちゃんがかわいそうだった。 帰って数日は、家を満喫していた。世界で一番飽きたはずの場所が、離れてみれば一番恋しいのだ。二度寝の布団のように、実家は体に馴染んで心地いい。近所の猫が庭に来ていた。じいちゃんが釣ってきた小魚を餌付けしているらしい。縁側に寝転がり手を伸ばして、すり寄った頭を撫ぜた。けったいなさび柄がご機嫌に笑う。夏の日陰は気持ちがよく、猫を撫でながら一緒にうとうとしていた俺の背中に何かが乗った。 「せっかく帰ったんなら、おばさんに挨拶してこい。ついでにこれ、届けてくれ」 「がってん承知ィ」 父さんは三枚下ろしのアジをタッパーに詰めて寄こした。叔母の家は一里と離れていない。軽い散歩がてらにちょうどいい距離だ。 「これ使ってるんだ」 「ああ、お前の土産な。汁が溢れないし、洗うのも楽なんで重宝してるんだ。うちとおばさんち、百回は往復してるぞ」 「そんなん、タッパー冥利に尽きすぎるだろ…」 この島にタッパーなんてものはない。土産といえば聞こえはいいが、俺が前に帰ったとき、弁当を詰めて持ってきて、そのまま忘れていったやつだ。丁寧に使ってくれているらしく、ヘビーユースの割にパッキンも悪くなってない。 魚を届けに叔母の家に来たら、従兄弟がちょうど帰って来て、迎えてくれた。にいちゃんと駆け寄ってくる満面の笑みには、右側下の牙がない。 「あれ、歯欠けじゃん、ついに抜けたの」 「そうなの〜。ご飯すごく詰まる」 照れ臭そうに歯のあった場所を舐める従兄弟の後ろから、なんだか黒焦げに日焼けした子供が出てきた。黒焦げには見覚えがあった。
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