波のない海

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波のない海

夜明け前に厠で目が覚めてしまった。外に出ると、月が光っていて、寝る前よりも涼しい。玄関の前に座って空を眺めていたら、そのまま舟を見つけた浦まで行ってみたくなった。 道の端の藪からガサガサと音がした。ヘビか何かがいるんだろう。住人はみんな寝ているけど、動物は案外起きているものらしい。貿易屋を通り過ぎる。夜に岩場を降りるのは危ないから、少し迂回しないといけない。あの浦は確か、墓地とその先の小さい林を突っ切ったら行けるはず。その手前にはおいらの友達の家がも何軒かある。誰かの親に見つかったらめちゃくちゃに怒られるだろう。忍者気分を味わいながら通りを進む。幸い誰にも見つからなかった。 浜に出たら、音が全く聞こえなくなった。海が、あまりにも静かだった。おかしい理由はすぐにわかった。波がなかったのだ。まあ、そんなこともあるんだろう。波がなくても、海は海だ。砂の感触が気持ちいい。昼間は温かい砂が、今は少し冷たいくらいだ。 水面の動かない浜は、崖の縁を歩いているようだった。右も左も、暗い闇が島の先まで続いていた。昨日の市があった桟橋がある。桟橋の先に立つ想像をする。そこから海を覗き込めば、海に突き出した飛び込み台のように見えるに違いない。そして飛び降りたら最後、二度と上がっては来れない、ような気がした。 桟橋のさらに先、遠くの海の上で光っている粒が見えた。月の光が照り返しているいるのかと思ったが、粒は月の色ではなかった。海の一か所だけ、光る粒がばらまかれたみたいだった。橙色の粒は次々に増えて、海の上を漂いながら広がるように流れていった。 (近くで見たい) どうしても知りたかった。今まで見た中で、一番不思議なものだったからだ。あの光の粒の中心に入ったら、どれだけきれいだろうかと思った。随分遠くだから、泳いでは行けないだろう。しかし浜には丁度よく、漆の舟があるじゃないか。おいらは舟を海に出して、櫂をめちゃくちゃにぶん回した。波のない海で、おいらが海面を叩きつける音だけが響いた。 浜から三町ほど漕いだら、やっと舟を漕ぐのに慣れてきて、舟の進みも速くなった。家から出て目も暗闇に慣れたというのに、海は黒く、形が見えないままだった。光はまだ遠くへは流れていないが、沖の方には大岩の他には何もないから、距離が分からない。 それからどれくらい漕いだか、やっと光の一粒一粒が数えられるくらいまで近づいた。波に漂っているのか、海の上を飛んでいるのか判然としない。もう少しで、光の正体がわかるはず。 「うわっ!?」 急に舟が前のめりになる。船尾が浮いたのだ。立て直す暇も無く舟が転覆した。おいらは海に投げ出された。四日ぶりに海の感触を味わった。夜の海は、昼間より少しだけひんやりしていた。 (まずい…) 光があるから多少は明るいかと思ったが、海の中はやはり真っ暗だった。しかもここは大岩の外で、今は海閉めの夜。おまけに落ちたとき鼻に水が入った。波もないのに舟が転覆するわけがないから、何かに乗り上げたが、イルカか何かに押し上げられたかもしれない。舟を転がしたのが危険な奴だとまずい。幸いあまり深くに沈んだ気はしない。海面に上がって舟を見つけなければ。 橙色の光を目指して泳ぎ始めたとき、そこら中に魚がいることに気がついた。大きいもの、小さいもの、見たことがあるもの、ないもの。その中心に、一際大きくのんびり泳ぐフカがいる。大群の魚たちは、フカに着いて行くように見えた。フカがこちらに向かって泳いでくる。光の粒と月の光で、斑点模様が浮かび上がった。眠たそうな瞳と目が合った。
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