帰省

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帰省

空が呆れるくらいの青になって、どれくらい経ったのか。波のない鏡のような海に、何もない空が映った結果何もない薄桃色の空間を、体感で三日かけて抜けた。 抜けた先は一応、故郷の海である。高い青空は確実に間違いなく美しいのだが、雲のひとつもなくただ水平線が続く海域はいまひとつ写真映えしない。暇つぶしに持ってきた小説もとうに読み切った。いよいよ舟と並んで泳ぐくらいしか思いつかないが、置いていかれたら流石に困るので、本気でやる気にはならなかった。趣向を変えて鈍行列車を選んだ結果である。次の帰省は特急にしようと思った。 なんとか島までたどり着いて、白い砂に足を下ろした。 「ふ〜、暑かったなあ。ありがとうね、おっちゃん」 お礼にペットボトルの真水を背中にかけると、おっちゃんは気持ち良さそうに目を細めた。舟であり、船頭であるおっちゃんは、甲羅が一畳はあろうかという巨大な海亀である。甲羅がくぼんでいて、海面を泳げば舟のように乗れる種なのだ。言葉は喋れないが、こちらの言葉は理解しているので行き先の交渉はできる。海流を知り尽くしたエキスパートだから迷う心配もない。帰省の選択肢の中では最安値なのが金のない若者には嬉しいところだが、亀だけに長旅は必至だ。 舟亀のおっちゃんはしばらく、久々の陸を楽しむようだ。海から島を見たときは特に実感が湧かなかったが、いざ浜に降りてみると、足をとらえる砂粒や、背中を刺す日差しの感触が一息に蘇って、なんとも懐かしい。目前にはこの島で一番高い断崖があるが、俺は崖の間の抜け道を知っている。飽きもせず悪友たちとよく上り下りしたっけ。 「あー…すごい、なっつ……」 地元に帰ったら急にホームシックにかかったようで、俺はしばらく感慨に浸ってしまった。振り返ると、海に帰って行く船頭さんの頭と、これまた懐かしい故郷の海があった。 俺の家は坂の上の方にある。この坂を仰ぐ景色なんて何でもなかったはずなのに、今更妙に懐かしくて思わず立ち止まってしまった。市場も、幼馴染の家も、俺が島を出た頃と何も変わっていなくて安心した。海を横目に白く照り返す坂を登って家を目指す。 魚屋の品揃えをちょっと覗く。最初にアワビに目が行く。スズキや太刀魚も旨そうだ。 「おばちゃん、アワビ五つちょーだい!」 「はい、いらっしゃい……あれえタッちゃんとこの子じゃない?あらあ、いつ帰ってきたの?」 「ついさっきだよ、家にもまだ行ってねぇや。アワビは、家に土産にと思って」 「そおなのお。魚と競争してた子が、こおんなに立派になってねえ。タッちゃんと瓜二つだよお」 「ほんとお?父ちゃんに似てるかなあ?」 間伸びした懐かしいリズムだった。つられて俺も訛る。おばちゃんは日焼けした顔を緩ませて話を続けた。 「またずういぶん格好がハイカラになったじゃない」 「都では腰蓑は流行ってねぇからよ」 「そりゃあ残念」 おばちゃんは俺が出て行く前より楽しそうに話してくれる。俺が、久しぶりに帰ってくる珍しい奴になったからだろう。 「ひとつオマケしとくよ。テツさんはアワビが好物だからねえ」 「ありがと!」 おばちゃん六つのアワビを籠にいれて持たせてくれた。 坂の上から海を見下ろす。少し沖に目を向けると、鯨のような大岩が、幼い頃と変わらない形で海に突き出していた。 草の一本も生えていない、ごつごつした黒い岩の塊は、この島の子供にとってはちょっと特別な存在だ。大岩より先の海へ行ってはいけないと、大人たちにきつく言われているからだ。岩より先は、海が一段と深いのだという。素直な子は大岩に近づかなかった。やんちゃな連中は度胸試しに泳いで行こうとするが、そう簡単にたどり着ける距離ではない。途中で諦めて引き返すか、戻ってこれなくなって舟で助けられるかだ。大岩まで泳ぎ切って往復したのが、子供の頃の俺の自慢だった。 「ずーっと、探してるんだけどなぁ」 大岩のずっと向こうを見る。さっき渡ってきたのとは別の、この先にあるといわれる海を、今年も俺は見つけられなかった。
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