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食堂エリアの隅っこで小盛のカレーを流しこみ、すぐに就寝エリアであるカプセルホテルエリアに向かう。
カプセルホテルエリアには大小様々なカプセルベッドが設置され、中には二人で利用している者達もいる。牧瀬は黄色い声が聞こえるそれをスルーし疎らに利用されているシングルタイプの一つに素早く入り込む。【利用中】と表示が変わるがそんな細かい変化は彼にとってはどうでもいいことだ。
エリア内には大浴場があるがシャワーを浴びる気もしない牧瀬は寝巻用のルームウェアのみ持ってきて寝ながら着替えた。狭いベッドゆえ何度も腰を打ち付けしばらく痛みが続いた。枕が変わると寝られない彼の初日の睡眠時間はすごく短かった。
二日目と三日目は初日とほぼ変わらないルーチンだった。
牧瀬の行動範囲は書斎と食堂とカプセルホテルエリアのみ。他にも屋内プールエリアや音楽エリア、フリースペースでは当日参加オッケーの出会いイベントなどが盛り沢山であったがそのどれにも参加せず、学生時代に読めなかった漫画を読むのに貴重な時間を使った。
ラウンジでは毎日新参者が古参メンバーに囲まれている。そして期限を過ぎた者が『嘆きの間』から喜びと悲しみが入り混じった複雑な表情をしながら下界へ追放されている。
その向かいにある『喜びの間』からはパートナーとなった二人が仲良く手を繋ぎ巣立っていく。アダムとイヴ、あるいはアダム同士・イヴ同士もいた。
四日目にして牧瀬のルーチンに綻びが生じ始めた。
「……(苦しすぎる)」
特に遅効性の毒物を食べたわけではないのだが、長編漫画三作目の十八巻を読んでいたとき目の前のページが急にぼやけ始めた。頭がぼんやりする。両肩を動かすと激痛が走り思わずうめき声が漏れる。読書会の団欒の声でかき消されたが、普通の書斎だったらギョッと睨まれてしまう所だった。
読み過ぎである。
連日漫画しか読んでいないのだ。たまには外に出て気分転換でもしてほしいものだ。生憎今は外に出られないが、ここにはアスレチックエリアや屋内プールまであるのだ。体を動かす手段はいくらでもある。同じことを繰り返しているとメリハリがなくなりリズムが崩れるもの。いくら好きでもやり続けるのには限度があるのだ。
身体は悲鳴をあげているが心はそうではなかった。
「……(読んだ人、いないかな)」
感想を言い合いたいのだ。感想を叫びたいのだ。
その欲求が牧瀬を苦しめているのだ。
たくさんのメッセージが牧瀬の内で渦巻き、感情の濁流となって心のダムを決壊させようとしているのだ。睡眠不足もそれに拍車をかける結果となる。
四日目の牧瀬は普段着のまま死んだように眠った。
枕の形や硬さを気にすることもなく。
五日目。牧瀬は上体を上げた時、カプセルベッドの天井にしこたま頭をぶつけて一気に覚醒した。
「いっつー」
これがこの施設で牧瀬が発した最初の声だった。
この日、牧瀬はまるで別人のような振る舞いを見せる。
起床後、身支度を整えた彼が向かったのはアスレチックエリア。
閉塞感を抱えていた彼の中で思い切り何かが弾けた瞬間だった。アスレチックエリアでは多くの人達が汗を流している。コーナー取りがされていてマラソンをする者、学校にあるような遊具型のアトラクションにペアで挑む者などの声援が部屋中に響いている。
「……こんにちは」
まるで異世界にきたかのように立ち尽くす牧瀬に声をかける者がいた。彼はスポーツ用のウェアを着ている。髪は短く刈り込んである。
「あ、は、こ、こんに、ちは」
言葉を発しないと咄嗟に声が出なくなるもので、牧瀬の声はくぐもって聞こえ辛い。それでも彼は嫌な顔を一切見せない。
「良かったらこっちでボルダリングしてみませんか?」
「ボルダ、リング?」
ボルダリングとは人工の壁面を登るスポーツだ。壁には突起状の足をかける箇所がありこれを使って登っていく。勿論、インドア派の牧瀬にとっては初体験だ。
「あの、その……やったことないのですが」
消極的な牧瀬に対し、男性はにっと笑って続ける。
「大丈夫大丈夫。初心者大歓迎だから。せっかくの機会だしやってみようよ」
勇気を振り絞り頷く牧瀬。その時、彼の首輪からファンファーレのような音がする。
『ウエハラ トヨミツとのグッド値 2P』
それはグッド値を獲得したアナウンスだった。同じように上原の首輪からもアナウンスがする。
「上原です。短い時間だけどよろしく。牧瀬さん」
その後、短時間だが汗を流した。何人かと談笑する中で何点かの『グッド値』を獲得することに成功した。
ボルダリングを終えた彼が向かった先は、屋内プールだ。
そこでもイベントは行われていて、牧瀬が選んだのは川をボートで下るラフティングを疑似的に再現したアトラクションだ。エリアの半分に大きなスライダーが設置されていてそれをボートに乗った状態で滑るのだ。ラフティング本来の複雑な動きまではいかないがそれでも激流を下る感覚を味わえると人気だった。
水飛沫が牧瀬のどんよりした頭を思い切り揺さぶり、冷たさが生きている実感を与えたのと同時に今日が『五日目』という現実を叩きつける。
同じボートに乗った者同士で軽くランチをして、ここでも数点『グッド値』を獲得する。
牧瀬は軽くシャワーを浴びた後、とある場所に向かった。
牧瀬が向かった場所。
それは書斎だ。
初日とは印象が違うように見えるのは牧瀬自身が変わったからだろうか。フィルターは簡単に変えることが出来ると自信をつけた彼はトークエリアに足を運ぶ。
そこでは変わらず読書会が開かれている。早速牧瀬は参加希望を伝えた。彼が参加する読書会はフリージャンルなので漫画でも実用書でも小説でも紹介オッケーだ。
彼はお気に入り漫画の十巻を紹介して話題をかっさらった。
何故十巻を紹介したのか、初めてのプレゼンなのでやや長くなったがそれでもその魅力は参加者たちに届いた。他の参加者が紹介した小説も牧瀬好みだったのでいい出会いがあった。感動を共有出来ることがこんなにも素晴らしいことだと痛感して彼は身震いした。
唯一落ち込んだ点を挙げるのならば、
「牧瀬さん! すごい良かったですよ。また来てくださいね」
担当の乙原に既にパートナーがいるという事実のみ。
それでも彼は読書会の魅力に取りつかれたので次回以降も参加しようと決めていた。
日数がある限り、参加したいと思った。
そして読書会の魅力、さらには本の素晴らしさを伝えるのだ。
牧瀬は使命感にかられるように本棚に視線を注ぐ。早速先程印象を受けた小説を読んでみようと思ったのだ。しかし中々見つからない。
「わっ!」
「きゃっ」
だから、同じようにして背表紙を眺めていた女性と肩がぶつかったのは必然だ。
女性が持っていた数冊の本が床に落ちる。お互い背表紙を注視していたばかりに視界が狭まっていたのだ。
「す、すみません!」
「こちらこそゴメンなさい……」
牧瀬は落ちた本を素早く拾う。何気なく表紙を見ていると、すぐに彼の目が輝く。
「これ……好きなんですか?」
「えっ?」
それは牧瀬も読破した冒険漫画のシリーズだ。
「あ、えと……その」
女性の方は言葉に詰まりながらも言葉を紡ぐ。
「はい……好きです。アクションとかが好きで」
「僕も読みましたよ! 面白いですよね。あの、その――」
牧瀬の内から溢れる感情はついに口から出る言葉をも変容させる。
「良かったら少し話しませんか?」
女性とまともに話せなかった牧瀬らしからぬ言葉。彼はここ数日で表情も明るくなっていた。
「あ……はいっ! その、よろしくです」
女性の方もパッと表情を明るくする。嬉々として残りの本を拾い上げる。彼女も牧瀬と同じく本好きな話し相手を求めていたのだろう。
「へえ、小説も読むんですね」
「はい。これ私が小学生から続いているシリーズなんですよ」
「僕、小説はあまり読まないんですよね」
「えぇ! 勿体ない! 面白いのに~!」
「あっはは、何読んだらいいんですかね?」
「えっと、そうですね……どんなジャンルが好きですか?」
「うーんと……」
その時、首輪からアナウンスがする。
『ハタナカ シズクとのグッド値 15P』
『マキセ ノブマサとのグッド値 15P』
「あ、その……牧瀬信正です。よろしくお願いします
」
「畑中雫です。よろしくお願いします」
牧瀬は畑中と『五日目』に出会った。
素朴だが唐突で、劇的な出会いだった。
五日目、牧瀬が就寝するのは深夜を過ぎていた。
雫と書斎のトークエリアでお互いの好きな本の話をして、気づいたら夕飯を食べる時間をとうに過ぎていた。腹の虫が騒ぎ出して二人で遅いディナーを食べ、その後フリースペースで共に晩酌をしながら話の続きを始めた。雫は牧瀬が好きな漫画の黒髪ショートボブヘアのヒロインに似ていることもあり、笑う度に揺れる黒髪をちらちら見ていた。
その頃には二人の『グッド値』はみるみる内に上昇していた。
牧瀬はあまり眠れなかった。
枕のせいではない。
胸の高鳴りのせいだ。
そして牧瀬にとっての『最終日』がやってきた。雫はもう一日猶予がある。しかし牧瀬が追放されると雫の牧瀬との『グッド値』は意味を為さなくなってしまう。彼女が獲得した他の者との『グッド値』もあるようだが、
「いいの。露骨な人達ばっかだったから」
どうやら未練はないようだ。
「ありがとう」
「お礼なんてやめてよ」
雫は真っ直ぐ牧瀬を見つめて、
「あなたは?」
「そんなの……」
牧瀬は内心戸惑っている。
未だに一連の出来事が夢なのではないかと思っている。
あと一歩だ。
その一歩は計り知れないくらい重いのに、驚くほど簡単に踏み出すことができる。
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